安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「お念仏を称えながら、助かりたい、今救われたい、という欲の心も出てきます。どうにもならないと、悲しくなります。なぜ、私には聞こえないのでしょうか。」(頂いた質問)

前回のエントリーについてお尋ねがありました。

南無阿弥陀仏は私を救うお働きであると聞き入れたのが、浄土真宗で言う「信心」です。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130618/1371544608

と書かれてありました。

聞き入れられないのです。
そうしますと次にどう聞いたら、の「どう」が出て参ります。
お念仏を称えながら、助かりたい、今救われたい、という欲の心も出てきます。
どうにもならないと、悲しくなります。

なぜ、私には聞こえないのでしょうか。(頂いた質問)

南無阿弥陀仏という声そのものは、お尋ねの文面にもあるのですから、実際に称えられているのだと思います。その「声」は聞こえているわけですが、お尋ねの方は「聞こえない」と言われています。

南無阿弥陀仏を聞き入れるとは?

南無阿弥陀仏を聞き入れるというのは、「聞き入れた結果どうにかなった」ということではありません。聞き入れたままが信心ということです。


それを御文章には

当流の信心決定すといふ体は、すなはち南無阿弥陀仏の六字のすがたとこころうべきなり。(御文章4帖目8通)

http://goo.gl/DRc4r

と言われています。
信心決定する「体」は、「私の心が南無阿弥陀仏を聞き入れた結果どうにかなった」ということではなく、「すなはち南無阿弥陀仏の六字のすがた」と言われています。

南無阿弥陀仏の六字のすがたとは、上記の御文章の後には

かるがゆゑに、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。(御文章4帖目8通)

と言われています。

阿弥陀仏が、昔、法蔵菩薩のときに「すべてのものが仏になることができなければ、私も仏にならない」と本願を建てられ、その本願が成就して法蔵菩薩が仏になられたすがたが、今の南無阿弥陀仏です。これが私の往生が定まった証拠です。だから、他力の信心を獲得するといっても、ただこの南無阿弥陀仏の六字のこころであると聞いて疑い無いということであると言われています。


こう書きますと、「聞き入れたら何かかわるのではないでしょうか?」と思われるかも知れません。聞き入れたら、また他力の信心を獲たらよろこぶ人は多いによろこぶでしょうし、懺悔の心が強く起きる人もあるでしょう。しかし、それら「信心を獲たらこうなるという心」は「信心」とは別物です。言葉を変えると「南無阿弥陀仏を聞き入れたらこうなるという心」と「南無阿弥陀仏」は別物ということです。

「どう聞いたら」は「聞いたらどうかなったのが信心」という前提の話

聞き入れた結果「こうなった心」を信心と思うと、「どう」ということばかりが問題になってしまいます。
南無阿弥陀仏は、私を浄土に往生させる阿弥陀仏のお働きそのものであって、それを聞き入れた上で私が何を思っても、その「思った心」で浄土往生ができるのではありません。南無阿弥陀仏に、浄土往生の働きがあるのです。


どう思ったら南無阿弥陀仏を聞き入れると考えるよりも、まず南無阿弥陀仏を聞いて下さい。その上でどう思っても、南無阿弥陀仏をただ今疑い無く聞く人は必ず浄土往生を遂げることができます。

どう聞いても、南無阿弥陀仏はただ今お前を助けるという阿弥陀仏の仰せです。ただ今聞いて救われます。