安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「信後は信罪福心はなくなるのでしょうか?」(じぇじぇじぇさんのコメントより)

疑い無いのが信心と聞きますが、疑いとは具体的にどのようなものをいうのでしょうか?(頂いた質問)5回目_信罪福心について - 安心問答(浄土真宗の信心について)について、じぇじぇじぇさんより以下のコメントを頂きました。有り難うございました。

じぇじぇじぇ 2013/09/25 03:15
お尋ねします。
信後は信罪福心はなくなるのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130924/1380019494#c1380046502

前回のエントリーで誤解を招く表現があった場合はお詫び致します。
結論から言えば、「信罪福心そのもの」はなくなりません。なくなるように書いていたのは、「信罪福心にもとづいて本願力を願い求める心を自力心」といいますので、それはなくなります。


浄土真宗辞典に紹介されている通り、信罪福心という言葉は大無量寿経から出た言葉です。

この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じ善本を修習して、その国に生れんと願ふ。(大無量寿経下巻_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P76)
(現代文)
無量寿仏の五種の智慧を知らず、この智慧を疑って信じない。それでいて悪の報いを恐れ、善の果報を望んで善い行いをし、功徳を積んでその国(浄土)に生れたいと願う

http://goo.gl/f3iHdG

信罪福心を疑いとしてエントリーで書いている時、その前提は「信罪福心をもって、阿弥陀仏の浄土に生まれようしている」ことです。ですから、信後は「信罪福心をもって、阿弥陀仏の浄土に生まれようとしている自力心はなくなる」という意味で書いています。悪の報いを恐れ、善の果報を望んで善い行いをするのは、日常生活においてはなくなるものではありません。しかし、浄土往生に関しては、すべて南無阿弥陀仏の一人働きでありますから、そこに私が罪福を信じてなんとかしようという心は立ち入る余地がありません。


南無阿弥陀仏によって、それは常に否定されるものです。信罪福心はありますが、「罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくる」と言われた心は常に本願力によって否定されるので出てきません。


最後に、前回のエントリーで、初めて紹介した浄土真宗辞典(本願寺出版)は、コンパクトで大変わかりやすくまとめてあるのでお勧めです。2013年3月に発行された一番新しい辞典です。お聖教を拝読して、「このお言葉の意味は本当はどうなのだろう?」と一度でも思われた方は、読まれたらいいと思います。

浄土真宗辞典

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