安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「自分の場合はこのような法の深信があったかと言われると、よくわかりません。」(ななしビックさんのコメントより)

ななしビック 2014/08/09 08:19
なんども済みません。二種深信が知りたいと書いたのですが、過去ログを調べたらありましたね。。先に調べておくべきでした。今更ですが。。
こんな大事なことは既出で当然ですよね。。
>なぜ阿弥陀仏が本願をおこされたのか(生起)を聞くとは、「自力では浄土へ往けないものだから」ということです。いわゆる自力無功と疑い無いのが機の深信です。

自分の場合は、「自分と思ってきたカタマリのどこを分析しても(身も心も)、自分のものである、自分の本質であるといえるものがなかった。自分とは縁に触れ て生ずるつくられたものだった。自力以前の問題だった。」ということに疑いがなくなりました。浄土はかけらも登場しませんでした。

>ではどうやって私を助けようとされているのか(本末)を聞くとは、阿弥陀仏の願力のお働き一つで救うということであり、南無阿弥陀仏だけで救うと聞いて疑い無いことが法の深信です。

自分の場合はこのような法の深信があったかと言われると、よくわかりません。

我執は消えませんでしたが、我執が無意味なことはわかりました。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140807/1407402941#c1407539946

二種深信について、浄土真宗辞典より一部紹介します。

にしゅじんしん 二種深信
(略)
この二種深信は他力信心のすがたを示し、二種一具の関係にあって、別々のものでも矛盾するものでもなく、一つの信心の両面をあらわしている。なお、二種の心が並び起こるものである(二心並起)としたり、前後関係がある(前後起)とする異安心に対し、安心論題に「二種深信」が設けられている。(浄土真宗辞典

ですから、機の深信と法の深信が別々のものとして同時に起きる(二心並起)ということはありません。また、機の深信が起きてから、法の深信が起きる(前後起)あるいは、法の深信が起きてから機の深信が起きるということも有りません。


二種深信と「二種」と言う言葉があっても「別々のものでも矛盾するものでもなく、一つの信心の両面をあらわしている」というのが大切なところです。私は以前、「別々の矛盾したものが同時に起きる(二心並起)」が二種深信だと思っていましたが、それは間違いでした。


あくまでも「一つの信心の両面をあらわしている」のが二種深信ですから、もともと二つ別々である道理がありません。


ここで「一つの信心」とあるのは、阿弥陀仏の本願を聞いて疑いない以外には有りません。本願を聞いたのが信心という、聞即信の信心です。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版

http://goo.gl/X9Hg2dx

ここで「きくといふは、信心をあらはす御のりなり」と言われているのが、いわゆる「聞即信」のことです。そこで「聞く」とはなにかについて、上記のご文では「本願の名号をきく」「如来の御ちかひをききて疑ふこころのなき」ことだと言われています。

本願を聞くといっても、実際は「本願の名号を聞く」ということですから「南無阿弥陀仏を聞く」ということです。その南無阿弥陀仏については、親鸞聖人は「本願招喚の勅命(教行信証行巻)」と言われています。


「直ちに来れ」と喚びかけられる阿弥陀仏の仰せを聞いて疑いない、つまり、仰せに従い聞き入れたことを「聞」といいます。それが他力信心ということです。その信心のすがたを示されたのが二種深信です。


南無阿弥陀仏の勅命を抜きにして、何か分かったことを持ってきても二種深信とはいいません。

浄土真宗辞典

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