疑い無いのが信心と聞きますが、疑いとは具体的にどのようなものをいうのでしょうか?(頂いた質問)
「疑い」とは、具体的にどのようなことを指して親鸞聖人は言われているのかについて、続けて書いています。
今回は、「信罪福心」を疑いと言われたものです。
まず、信罪福心について、浄土真宗辞典より

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罪とは苦果を招く悪業、福とは楽果を招く善業のことで、善因楽果、悪因苦果の道理を信じることをいう。『大経』に「この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生まれんと願ふ」(浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P76)と説かれている。(中略)信罪福心にもとづいて本願力を願い求める心を自力心として誡めている。
「信罪福心」は、大無量寿経から出てきている言葉です。
親鸞聖人は、教行信証化身土巻に、以下のように書かれています。
定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。(教行信証化身土巻_真門釈_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P399)
http://goo.gl/JehJqz
信罪福心をもって本願の救いを求めることを、自力心といわれていますので、これは疑いと同じ意味として使われています。
この信罪福心は、自力心の特徴をよく表しています。因果の道理を信じて、善は自分にとってプラスの結果をもたらし、悪はマイナスの結果をもたらすと考えるのは善悪を土台にした考え方です。善悪を土台にするというのは、いわゆる道徳的理性の発想です。
それからすると道徳的良心を働かせるほど、自分の悪に対する自覚が深まるということになります。よって、道徳的良心がほとんどない人は、自分の罪悪の意識もほんどないということになります。また、道徳的良心が無限大に大きくなれば、罪悪の自覚も無限大に深まっていくことになります。
そうやって無限大に深まった罪悪の自覚をもって「それが地獄は一定の自己を知らされることであり、機の深信である」という人がいますが、それは大変な誤りです。なぜなら、そのようにして自己の良心をもって自己の罪悪を掘り下げていって「自分はどうにもならない」「地獄しか行き場がない」と思ったとしても、その心には常に「どうにか助かりたい」という心が離れないからです。その「どうにか助かりたい心」という自己が残っている間は機の深信とはいいません。道徳的理性の延長には、機の深信ということはありません。
親鸞聖人が「機の深信」でいわれる「自己」とは、そのような自分で自分を問題視するようなものではありません。
しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。(歎異抄第9条_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P836)
http://goo.gl/Ul53s
私が、道徳的良心をもって自分を見るよりずっと前から阿弥陀如来が見ておられる「自己」のことです。それを「仏かねてしろしめして」と言われています。
親鸞聖人がいわれる「自己」とは、言葉を変えれば阿弥陀仏の本願の相手のことです。阿弥陀仏が、本願を起こされた相手とは、仏の側から見られた私の姿です。私から見た私の姿ではありません。
教行信証信巻にも、
ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して(教行信証信巻_P231)
http://goo.gl/Z6U1m
といわれています。「如来」が「一切苦悩の衆生海」を憐れに思われて本願を起こされました。
そこで、阿弥陀仏の本願は、私が道徳的良心で自己の罪悪を自覚した上で「救われたい」と願うことで建てられたものではありません。そのような私が自覚するより先に、阿弥陀仏の方から私をご覧になって本願を建てられたので「先手の本願」とも言われます。
先ほど書いた「機の深信」というのも、罪を自覚することではありません。いわゆる「信罪福心」のでいう「信罪の機」ではありません。なぜなら、そこにはどうしても「罪深いものだからなんとか助かりたい」という心がなくなりません。その信罪の機を否定されたものが機の深信です。
また、「法の深信」は、「善いことをしたから、頑張ったから浄土に行ける」と思うことではありません。そのような「信福の機」を否定し、本願力によって必ず往生をすると深信するのが法の深信です。
このように、信罪福心が否定され、疑い晴れたのが真実信心であり、本願を「聞いた」ということです。
そのことを、親鸞聖人はこのように言われています。
「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。(教行信証信巻)
http://goo.gl/UJ67er
今回の話でいえば「仏願の生起」とは、阿弥陀仏の方からご覧になった私を憐れに思われて本願を建てようとされたのですから、「信罪の機の否定」ということになります。「本末」は、阿弥陀仏が本願を建てられ、私の力が一切必要ないように南無阿弥陀仏となられて私に回向することによって救って下さることをいいます。今回の話で言えば、「信福の機の否定」ということになります。
二種深信も、仏願の生起本末を聞いて疑心あることなしも同じ信罪福心を否定された真実信心を言われたものです。どちらも、信罪福心である自力心は否定され、ただ南無阿弥陀仏のお働きが働いているというのが親鸞聖人のいわれた真実信心です。
「疑い」とはなにか
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