安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「私は気がついた時にはお念仏を唱えるようにしています。これは観無量寿経でいう第十六の観になるのでしょうか?」(みそみそさんのコメントより)

みそみそ 2018/04/21 23:45
私は気がついた時にはお念仏を唱えるようにしています。これは観無量寿経でいう第十六の観になるのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20180418/1523995313#c1524321920

コメントを頂き有り難うございました。今回はエントリーに書くのが遅くなり申し訳ございませんでした。


コメントの十六観について、浄土真宗辞典より引用します。

浄土真宗辞典

浄土真宗辞典

じゅうろっかん 十六観
『観経』に説かれる浄土往生のための16の観法のこと。(1)日想観(略)(14)上輩観、(15)中輩観、(16)下輩観の十六。浄影寺の慧遠などの聖道諸師が十六観すべてを定善としたのに対し、善導は日想観から雑想観までの十三観までを定善とし(定善十三観)、上輩観・中輩観・下輩観に分けて説かれた九品のものの往生行を散善とした。


そこで、下輩観の下輩とは何かといえば

(大経に)たださとりを求める心をおこして、ひたすらに無量寿仏を念ずるもの。また、『観経』には九品の往生が説かれるが、これは三輩を展開して、上三品を上輩、中三品を中輩、下三品を下輩としたものとみることができる。(浄土真宗辞典より)

では、その九品の往生という説明の仕方について、観無量寿経では確かに下三品には念仏を勧められています。では、それで往生できるのかといえば、結論から言えば報土往生はできないと言われています。


以下、浄土真宗辞典より

くぼん 九品
(略)
親鸞は「化身土巻」(註釈 376)において、九品往生の説示を第十九願往生の成就文とみており、『三経往生文類』においても「しかれば、『無量寿仏観経』には、定善・散善、三福九品の諸善、あるいは自力称名念仏を説きて、九品往生をすすめたまへり」(註 631)と述べ、自力諸行による往生であるとしている。


みそみそさんは、気がついた時にはお念仏を称えるようにされているとのことで、大変有り難いことです。
「自分が念仏称えることで、その功徳によって往生できる」と思って念仏されているのならば、第十六の観(下輩観)になります。


「本願を信じ念仏するものを救う本願」と信じて念仏して下さい。阿弥陀仏の本願で願われていることは、自力称名念仏による往生ではなく、本願を信じ念仏申すものを報土往生させるというものです。
ただ今救う本願念仏と聞いて、念仏申してみて下さい。疑い無いなら有り難いことです。