安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「救いに必要のない『私』を捨てよと阿弥陀仏は言われていますの言い回しは、たとえば『救いに必要のない「私」は捨てものだと阿弥陀仏は言われています』でないと、誤解のもとになるのではないでしょうか。(ループさんのコメント)

前回のエントリー(「信じる」こともできず、また「自力を捨てる」こともできない者が、「『ただ今救うぞ』という阿弥陀仏の仰せを受け入れること」はできるということでしょうか?(ループさんのコメントより) - 安心問答(浄土真宗の信心について))へのループさんのコメントです。

ループ 2013/09/03 21:00
お答え頂き有難うございます。

>阿弥陀仏の救いは、私から言えば「助かる」のではなく「助けられる」というのが適当な言い方です

yamamoya様が、
「ただ今救うぞ」という阿弥陀仏の仰せを受け入れることだけには「できます」とお答えになるのは、「受け入れる」という語が受動的であるからだと、理解いたしました。

しかし、それならば最初に戻って、
>救いに必要のない「私」を捨てよと阿弥陀仏は言われています
の言い回しは、たとえば『救いに必要のない「私」は捨てものだと阿弥陀仏は言われています』でないと、誤解のもとになるのではないでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130903/1378192200#c1378209655

誤解のもとにはならないと理解しております。
なぜなら御文章には、「雑行をすてて」と何度も書かれているからです。
例として、以下に御文章5帖目8通の最初を紹介します。

それ、五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも、ただわれら一切衆生をあながちにたすけたまはんがための方便に、阿弥陀如来、御身労ありて、南無阿弥陀仏といふ本願(第十八願)をたてましまして、「まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまゐらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじ」と誓ひたまひて、南無阿弥陀仏と成りまします。(御文章5帖目8通_五劫思惟_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1195)

http://goo.gl/jYxWNA

「まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまゐらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじ」は、阿弥陀仏の本願(第十八願)を蓮如上人がかかれたものです。そのように誓われて、南無阿弥陀仏となられたのですから、南無阿弥陀仏の仰せは「雑行をすてよ」「一向一心に弥陀をたのめ」であり「必ず助ける」となります。

そのなかの「雑行をすてよ」から「救いに必要のない『私』を捨てよと阿弥陀仏は言われています」と以前のエントリーで書きました。


「雑行を捨てよ」や「救いに必要のない『私』を捨てよ」と聞いて、「何かをせよと阿弥陀仏は言われているのか?」と思うのは間違いです。ただ、それは読んだ人が前述の文章をどう読むかという読解力という話ではありません。阿弥陀仏の本願が成就したということが、私の力が必要ないということであるということがよく理解されていないからだと思います。(違っていたらすみません)


先に紹介した御文章でも、阿弥陀仏の本願はすでに成就して「南無阿弥陀仏と成りまします」と書かれています。そこで、「成就」とはどういうことかについて、親鸞聖人は教行信証行巻に、曇鸞大師の浄土論註を引文されています。

願もつて力を成ず、力もつて願に就く。願、徒然ならず、力、虚設ならず。力願あひ符うて畢竟じて差はず。ゆゑに成就といふ(教行信証行巻_一乗海釈_論註引文_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P198)

http://goo.gl/wWXZMK

阿弥陀仏の本願は、それによって力を成り立たせている。その力は本願にもとづいて本願に誓われた通りの力である。阿弥陀仏の本願は、ただの願いだけでおわるような空しいものではなく、また本願力は空しく空転することがない。本願力(南無阿弥陀仏のお働き)と本願はぴったり合致してまったく違いがないので成就というと言われています。


阿弥陀仏が本願を建てるにあたって、そもそも私に何か「手助け」を必要とされませんでした。それは、どんな人でも助けるために五劫思惟された結果のことです。ですから、阿弥陀仏の本願は「私に何かをしなさい(その行為を手助けに助けます)」と誓われたものではありません。その本願通りに働いておられる本願力である「南無阿弥陀仏」の仰せは、また「私に何かを要求する」ということはありません。本願には初めから「私」は必要ないことをそのまま言われているだけです。


南無阿弥陀仏は「ただ今助ける」の仰せです。それを聞いて「ただ今助かる」と助けられてください。