安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

本願力回向を聞くのだといわれても、私には今阿弥陀仏の仰せは聞こえていません。(メンデルさんのコメント)

メンデルさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

本願力回向を聞くのだといわれても、私には今阿弥陀仏の仰せは聞こえていません。
私が聞けるのは善知識方のお言葉だけです。阿弥陀仏が今救う、そのまま救うと呼んでおられるとお聞かせいただくと、阿弥陀仏は今呼んでおられる、そのまま救うと仰っていると思いとらせていただこうとして、善知識方のお言葉を自分の心で信じにかかるだけです。
そして、恐ろしい思いだとは思いながら、阿弥陀仏には今の私を救う力はないのではないかという考えが頭をよぎって悲しくなります。
どのようにお聞かせいただけばよいのでしょうか。(メンデルさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110914/1315987121#c1316168282

阿弥陀仏の仰せは、「南無阿弥陀仏」です。その南無阿弥陀仏が声となって「音声」として聞こえてくるときは、私の口を通して出て下さった念仏です。

阿弥陀仏は、法蔵菩薩であったとき世自在王仏の前で四十八願を誓われました。そのあとに、重ねて誓われたのが重誓偈です。

われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。
究竟して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ。(大無量寿経・浄土真宗聖典(註釈版)P24

私が仏のさとりを開いたら、我が南無阿弥陀仏は声となって大宇宙に届きます。もしその南無阿弥陀仏が声となって聞こえる所がなかったら、仏になりませんといわれています。

実際の「音声」としては、この口から出て下さる「南無阿弥陀仏」以外に聞こえるものはありません。この「南無阿弥陀仏」を称えさせて下されるお働きを本願力回向といいます。

善知識のお勧めは、メンデルさんが口で称えている「南無阿弥陀仏」が、私を救って下さるお働きであり、声となられた南無阿弥陀仏なのですよと教えられているのです。

『選択本願念仏集』(選択集 一一八三)[源空集]にいはく、
「南無阿弥陀仏[往生の業は念仏を本とす]」と。(教行信証行巻・浄土真宗聖典(註釈版)P185

私の口から出て下さっている「南無阿弥陀仏」に「往生の業」があると教えられています。
その「往生の業」である南無阿弥陀仏を聞きながら、「これは私がただ称えている声である」と判別し、それ以外に「阿弥陀仏の仰せが他にある」と考えているのが計らいです。
最初から、この南無阿弥陀仏以外に私を助けるお働きはありません。

阿弥陀仏に私を救う力が無いのではありません。本来私を救う力のある「南無阿弥陀仏」以外に、救いの仰せを探しているだけです。

恐ろしいと思われているとのことですが、表現はどうあっても「疑い」「自力の計らい」は、本願力を疑っているのですから、メンデルさんのいわれる心そのままです。
もし罪悪を問題とされるとしたなら、本願力を疑っている罪を思われるメンデルさんは罪悪をよく見られている方だとおもいます。
そんな罪悪深重な者を救うと呼びかけられている声が、この口から出て下さる「南無阿弥陀仏」です。
本願力回向を疑い無く聞いて、ただ今救われて下さい。