安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「信じる」こともできず、また「自力を捨てる」こともできない者が、「『ただ今救うぞ』という阿弥陀仏の仰せを受け入れること」はできるということでしょうか?(ループさんのコメントより)

ループさん、ventureさんから前回のエントリーについてコメントを頂きました。お尋ねのあった部分について書きます。

ループ 2013/09/01 16:36
お答え頂き有難うございます。

>他力の信心と言われるものは、阿弥陀仏の仰せを受け入れただけです。

「信じる」こともできず、また「自力を捨てる」こともできない者が、
>「ただ今救うぞ」という阿弥陀仏の仰せを受け入れること
はできるということでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130901/1377985316#c1378021003

できます。
ただ、「できる」というと自分の力でできたような語感がありますが、阿弥陀仏の本願力によって救われます。阿弥陀仏の救いは、私から言えば「助かる」のではなく「助けられる」というのが適当な言い方です。


歎異抄の第一条にも最初に「たすけられ」と書かれています。

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。(歎異抄第一条_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P831)

http://goo.gl/rFiov

また、自分の力ではとても「助かる」ことができないから、「助ける」の仰せによって「助けられる」身になるのです。


そこで、高僧和讃には、自力ではとても行けない浄土だから、ある程度のさとりを開いた人でも本願力にまかせるのだと言われています。

(72)
願力成就の報土には
 自力の心行いたらねば
 大小聖人みなながら
 如来の弘誓に乗ずなり(高僧和讃_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P591)

http://goo.gl/4OhtR

大小聖人(大乗の聖人、小乗の聖人)でも、阿弥陀仏の浄土に往生するには「如来の弘誓に乗ず」るのですから、私のような者はなおさら本願力によらねば助けられることはありません。反対に言えば、本願力によって必ず浄土往生させていただけるということです。

ventures 2013/09/01 17:54
最大の問題はどういうきっかけで受け入れるのかということですね
なんにせよきっかけがないと何も起こらないと思いますから
阿弥陀様が縁に応じて働きかけるということなんですかね
そうなると最早こちらがどうこうするという話じゃないので
いつともしれないものを憧れながら指をくわえて眺めてるより他ないですね

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130901/1377985316#c1378025672

きっかけというものを求めるのも間違いです。きっかけが起きてからたすかるのは、ただ今助けられることはありません。ただ今助けるという本願力がただ今私に働いているのですから、それ以外に何かきっかけが必要ということはありません。


南無阿弥陀仏を、遠くにおいて何か眺める対象のように思っていれば、その距離は縮まることはありません。ただ今の私を救うために成就した南無阿弥陀仏ですから、私と離れたものではありません。眺めるものではなくて、ただ今聞いて称えるものです。

当エントリー投稿時点での、他の方のコメント

YGM 2013/09/02 09:38
指をくわえて眺めるというのは、分からなくはないですが、
『憧れ』というのが少し合わないように感じます。
苦しむ者を救わんとしているお慈悲は、ありがたく思うのであって、
『憧れる』という表現からは目指しているものが違っているのかと思います。

”きっかけ”ということに目が行ってしまうのも、そのあたりが原因なのではないかと思います。
獲信のメカニズム(?)は誰もわかりませんが、阿弥陀仏のお慈悲については詳しく教えてもらえますので、ここでひとつ着眼点を変えてみてはいかがでしょうか。


たかぼー 2013/09/02 16:49
「そのまま助くる」との如来の仰せをそのまま受け取ると、その仰せから離れることができなくなります。信前においては自力にとらわれて自力から脱出することができなかったのですが、信後はそれとは逆に、如来の仰せから離れることができなくなってしまいます。そのため、たえず私の思いは如来の仰せとともにあり、その仰せに私の心が落ち着いてしまうことになります。そうなりますと、「いつともしれないものを憧れながら指をくわえて眺めてるより他ない」などというはからいの思いなどが生じる余地はなくなってしまいます。そして、その仰せの故にわが生死を如来にまかせてしまうことになります。そのような心理に移行するメカニズムはまったく分かりませんが、現実にそうなってしまいました。だから、自力は捨て物ということがよく分かるし、弥陀をタノムという教えが指し示すこともよく分かるのです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130901/1377985316#c1378082290