安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「自力を捨てるとは例えば、「そのままとは?」というような疑問を考えないようにするという程度のことなのでしょうか。或いは何か方法論があるということですか。」(新垣真さん、はや3年トホホさんのコメントほかより)

新垣真さん、はや3年トホホさんからコメントについて、多数コメントを頂き有難うございました。

新垣 真 2012/01/02 12:56
善知識は悟りを得るための全因縁といわれるぐらいですから、誰からでも聞けばいいというようないい加減なものではないと思っていましたがかといって、殊更に善知識を強調すると今度は知識帰命ということに偏ってしまうことが分かりました。

本願をそのままを聞くとは、どういうことか。という疑問は自力で捨てもの、ということですが、無始より迷わせてきた親玉を自分の意志などで容易に捨てられるものなのでしょうか。

再び高森会長の言ですが、自力とは阿弥陀仏によって一念で切り捨てられるもので、自分でどうこうできるものではない。なぜなら、どうこうしようというのも自力だから離れられるものではない。だから一念のときまでは、自力いっぱいの自己をとりつめていき、いずれの行も及び難き身、と知らされるところまで進まねばならない、と説かれます。

自力を捨てるとは例えば、「そのままとは?」というような疑問を考えないようにするという程度のことなのでしょうか。或いは何か方法論があるということですか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120102/1325455256#c1325476618

善知識は全因縁については、迎春さんもコメントされている通りです。
また、こちらのブログでも紹介されているので参照ください。
※参照:「善知識は全因縁」の元になった阿含経についてのエントリー
※※阿含経にはこのような話も出ています21世紀の浄土真宗を考える会ブログ


新垣さんのコメントにありますが、「誰から聞いても同じ」では確かにありません。しかし、高森顕徹会長の場合は、教えそのものが違うので上記の話の範囲ではありません。
こう言いますと「教えが正しいかどうかは私に分からない」と言われる方もありますので、極簡単な判別方法をお伝えします。仏教の理解が全くないという方でも、これ一つ知っておられれば「知識帰命を教える悪知識」かどうかは分かります。
それは「ワシが善知識だ」「ワシから聞かねば救われない」という人は間違いなく悪知識です。そういう人からは速やかに離れるべきです。

自力は自分の意志で捨てようとしたから捨てられるものではありません。あくまでも本願を聞くことです。本願をそのまま聞かないことを自力というのですから、自力を捨てるとは本願をそのまま聞いたことです。

ですから、高森顕徹会長の説は、本願を聞くことを一切言わず、自分の機がどれだけ罪悪に問詰まったか努力したかを自力を捨てる条件として話をしているので間違いです。また、「自力一杯の自己をとりつめ」た人を、私は親鸞会にいたころにほとんど見たことはありません。たまに親鸞会の言うとおりの罪悪を問題にした人は、精神的に大きな傷をおって行きました。

本願をそのまま聞くとは、親鸞会のような方法を実践した人だけが聞けるというものではありません。また「考えないようにすればよい」というのも考えなので間違いです。「どうにもならない自力なら自力そのままお助け」というのも間違いです。
なぜなら、阿弥陀仏の浄土は、本願によって成就したところなので、自力を持ったままでは絶対に往生できないからです。自力そのままお助けには絶対になりません。


高僧和讃には、このように書かれています。

(72)
願力成就の報土には
 自力の心行いたらねば
 大小聖人*1みなながら
 如来の弘誓に乗ずなり(高僧和讃・浄土真宗聖典(註釈版)P591)

http://2hh.n8.sl.pt

ここで「大小聖人」というのは、大乗仏教、小乗仏教でいくつかのさとりをひらいた人のことです。私からみれば、大変尊い菩薩であっても、阿弥陀仏の浄土・「願力成就の報土」には、「自力の心行」ではとても往生できないので、それらを捨てて「如来の弘誓」に乗って救われたのです。
自力を捨てるのが「どの程度難しいか・易しいか」という問題ではなく、自力の心行では浄土往生は絶対にできません。そのため自力は、どうあっても捨てものなので、それは捨ててください。阿弥陀仏の「ただ今救う」の本願を聞いてください。方法論はありません。


はや3年さんからのコメントについて

はや3年、トホホ(~_~;)  2012/01/02 13:42
そのまま阿弥陀仏の仰せを聞くというのは、抽象的でいまひとつわかりません。
自力一杯求める必要が皆無というならば力を抜いて楽にしますが、それでは本願から心まで離れてしまう横着な私です。
昨年はたくさん涙を流してこれ以上ないくらい苦しみましたが、阿弥陀仏は私の自力を切り捨ててはくださいませんでした。
お手上げだなぁ(~_~;)

「抽象的でいまひとつわかりません」といわれるのは、「ただ今救う」以外の意味を理解しようとされているからです。阿弥陀仏の仰せには、聞いたそのままです。もちろん南無阿弥陀仏を成就し、私に喚びかけてくださるには、五劫思惟と兆載永劫の修行がありました。しかし、その五劫思惟や、兆載永劫の行自体や、またその願を起こされた如来の大慈悲心まで私が知ることはできません。
だから私がわかるように喚びかけられる「南無阿弥陀仏」「ただ今救う」を聞く以外にありません。なぜなら、南無阿弥陀仏を聞いて救うように本願はなっているからです。高森顕徹会長の発言を、親鸞会の会員が「言葉の裏にはなにか深い御心があるのだろうか」と思うように、本願を聞いてはなりません。

そのように考える癖を、親鸞会に長くいると付けられてしまいます。それが阿弥陀如来と知識を同一視する知識帰命の考え方です。

人間の考え、特に人を騙そうとする邪悪な者の考えは、善良な人には理解できません。しかし、阿弥陀仏の仰せは、私に分かるように喚びかけられるのですから聞いたそのままです。

阿弥陀仏の仰せは待つのではなく、聞くものです。ただ今聞いて救われてください。阿弥陀仏は苦しめとは言われません。「お前は大丈夫だ。ただ今救う」と仰っています。

*1:【左訓】「大乗の聖人、小乗の聖人」(異本)。