安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「一心正念でないのに念仏称えることは、一心正念になろうと努めていることにはならないのですか?」(りきいしさんのコメントより)

りきいし 2012/10/05 02:43
そういう本願を、一心正念でない者に呼びかければ「一心正念になろう」と努める心を生じさせるところに、阿弥陀仏の狙いがあるのではないでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20121004/1349341394#c1349372589

yamamoya 2012/10/05 04:37
りきいしさん

阿弥陀仏の狙いということでしたら、第十八願に「本願を信じ念仏するものを浄土に往生させ仏に生まれさせる」とあるので、それになります。「努める心」が起こせないもののために、阿弥陀如来が如来の至心を信楽せよと誓われています。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20121004/1349341394#c1349379474

りきいし 2012/10/05 06:29
一心正念でないのに念仏称えることは、一心正念になろうと努めていることにはならないのですか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20121004/1349341394#c1349386197

たかぼー 2012/10/05 10:44
念仏を称えることによって一心正念になろうと努めることは、弥陀20願の果遂の誓いの願力によるものでしょう。しかし、それは祖師が「罪福を信ずる心をもて本願力を願求す。これを自力の専心となづくるなり。」(化身土文類)と言われている廃捨されるべき本願疑惑心であります。この疑惑心をもって18願の真実信心に転入することはできません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20121004/1349341394#c1349401464


りきいしさんが言われるように、「一心正念でないのに念仏称えることは、一心正念になろうと努めている」ことになります。しかし、阿弥陀仏は一心正念になることを期待して念仏を称えなさいと言われているのではありません。また、一心正念になるための努力をしなさいといわれているのでもありません。阿弥陀仏の本願を、疑い無く聞き入れなさいといわれています。

なぜなら、阿弥陀仏の本願を疑い無く聞くことと、私が自分で称える自力念仏や努力は関係がないからです。念仏を多く称えたほうがいいとか、称えないほうがいいとか、努力したほうがいいとか、しないほうがいいとかいう考えは、すべて自分の行為の多少と阿弥陀仏の救いが関係あるというところから出発しています。

念仏について書きますと、阿弥陀仏の18願で誓われる念仏は、私の行為ではありません。
そこで、親鸞聖人は尊号真像銘文で、このように言われています。

「乃至十念」と申すは、如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふに、遍数の定まりなきほどをあらはし、時節を定めざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそへて誓ひたまへるなり。(尊号真像銘文・本・浄土真宗聖典(註釈版)P644)

http://1wv.j2.sl.pt

「乃至十念」という念仏は、阿弥陀如来の本願によって成就した南無阿弥陀仏を称えることを勧められるのに、数を問わず、時間を定められないことを私に知らせようと思われて、「乃至」と十念の念仏に添えて誓われているのだといわれています。

念仏を何回と称えるとか、いつ称えるということを作り出していくのは人間の行いです。それを問題にしないということは、ここで言われる十念の念仏は、人間の行いではないということです。

本願の念仏を、親鸞聖人は大行といわれ、教行信証に以下のようにいわれています。

大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。(教行信証・行文類・浄土真宗聖典(註釈版)P141)

http://6pu.fx.sl.pt

念仏は「もろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海」ですから、私の行為ではなく阿弥陀仏のなされる大行です。私が救いの足しにしようとする行いではもともとありません。

南無阿弥陀仏と念仏するときは、これは私の行為であって、これで何とか助かろうとするのではなく、これは「ただ今救う」と呼びかけ、働いておられる阿弥陀仏の本願力だと、そのまま聞いてください。

追記

エントリーを書いている間に、コメントがついていたので、追記します。

りきいし 2012/10/05 17:39
それならば、念仏は称えなくてもよいのですか?

上記にかきましたが、念仏は「往生の助けになる私の行」ではなく、「本願の行・大行」です。これは阿弥陀仏の喚び声であるとそのまま聞いて念仏してください。