安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

疑い無いのが信心と聞きますが、疑いとは具体的にどのようなものをいうのでしょうか?(頂いた質問)2_自力はどれだけ捨てようとしても自力になる理由

疑い無いのが信心と聞きますが、疑いとは具体的にどのようなものをいうのでしょうか?(頂いた質問)

信心に対する「疑い」について、前回に引き続き書きます。

疑いについて、別の言葉でよく使われるのが「自力心」または「自力の心」です。

横超とは、本願を憶念して自力の心を離る。これを横超他力と名づくるなり。(教行信証化土巻本_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P395)

http://goo.gl/2tu1PD

自力の心を離れたことを、横超他力といわれています。それは、他力の信心をあらわされたものですから、自力の心は疑いと同義語としてかかれています。

そこで、「自力の心」について親鸞聖人は一念多念証文に以下のように言われています。

自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。(一念多念証文_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P688)

http://goo.gl/6QqZAv

ここで「自力」といわれているのは「自力の心」と同じ意味です。それは、自分の心をたのみ、自分の力をはげんで、いろいろな善根をあてちからにすることをいわれています。
ここでいわれていることでいえば「自力を捨てようとする」のも、「わがこころをたのみ、わが力をはげみ」と同じことになります。


しかし、よく考えて見ると「自力を捨てようとする私(A)」が「自力の心(B)」を捨てようと一生懸命頑張ったとします。そこで、どうにかこうにか(B)を捨てることができたとしても、以前として(A)は残ります。自力を捨てようという私(自力・A)が、以前として残ってしまうという結果になります。そこでさらに「自力を捨てようとする私(A)」を捨てようと励んだところで、「『自力を捨てようとする私(A)』を捨てようとする私(C)」は残る訳です。結果として、そのような努力はどれだけ続けても「捨てようとする私(自力)」が残る以上は終わりがありません。


このように、自らの力で往生浄土を遂げようという心はすべて自力であり、「疑い」といわれます。

まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。(御消息6_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P746)

ここでいわれていているように、自らの善根をもって浄土往生を遂げようとすることを自力といわれています。どのようにしても自分自身をどうにかして他力になろうというのはゴールがありません。

どれだけ「私」を「めでとうしなして」も自力にかわりはありません。その「私」「自力」を捨てるのは「私」の仕事ではありません。南無阿弥陀仏のお働きにより救われるのですから、救いに必要のない「私」を捨てよと阿弥陀仏は言われています。

それを聞いたのが信心です。