メンデルさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
知人と話をしているときに、正信偈に「信楽授持甚以難難中之難無過此」とあるから、20年や30年の求道では信楽は得られないのではないかと言われました。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110413/1302640149#c1302709593
確かに浄土和讃(70)にも、一代諸経の信よりも弘誓の信楽がより難しいとあり、自力修行で悟るよりも難しいのであればとても無理だとも思います。
一方で、阿弥陀仏の救いは平生業成であり、只今の救いともお聞かせいただいておりますが、どう考えればよいのでしょうか。
阿弥陀仏の作られた願船に今乗りたいとは思うのですが、どうやって乗ったらいいのかも分からないし、難中之難と聞くと本当はずっと乗れないままではないかと心配になります。(メンデルさんのコメント)
「難中之難無過此」といわれるのは、自力をもって信楽には絶対になれないということです。
自力は一切いらないのが他力の信心であると、自力を戒め、他力の信心を褒め称えられる表現です。自力を捨てて他力に帰するなら、「とりやすの安心」といわれる他力の信心です。
自力が一切いらないから、どんな者でも信楽の身に救われます。私の力に用事がない大変有り難い他力の信心だと褒め称えられています。
(70)
一代諸教*1の信よりも 弘願の信楽*2なほかたし
難中之難とときたまひ 無過此難*3とのべたまふ(浄土和讃・聖典P568・法蔵館の真宗聖典P227下段)
このように「一代諸教の信よりも 弘願の信楽なほかたし」といわれるのは、阿弥陀仏が五劫思惟の願と兆載永劫の行によって成就された信楽ですから、他のお経に説かれる自らの修行で築き上げる信心よりもっと難しいということです。自力で「弘願の信楽」を起こすことは、もっと難しいと言うよりは、絶対に出来ないといわれています。
もし、自らの行によって信楽という信を建てようとしたら、法蔵菩薩がされたような清浄な心になり、その上で兆載永劫の行をしなければなりません。コメントにあるように20年や、30年の求道では絶対にできません。40年、50年でも出来ません。
自力の行によって信心どれだけ積み上げていっても、他力の信心にはならないので「難中之難とときたまひ 無過此難とのべたまふ」といわれています。
お釈迦様が「難中之難」「無過此難」と説かれながら、私にその「弘願の信楽」を勧められているのは、「無理だけどやりなさい」という意味ではありません。
自力で絶対に起こせない信心を勧められると言うことは、自力を捨てて他力に帰せよとのお勧めです。自力が廃るまで善をせよとの仰せでもありません。
直ちに救われよということは、直ちに自力を捨てよとおしえられているのです。
上記の後和讃の後に続けて以下のように書かれています。
(71)
念仏成仏これ真宗 万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして 自然の浄土をえぞしらぬ*4
(72)
聖道権仮の方便に 衆生ひさしくとどまりて
諸有に流転の身とぞなる 悲願の一乗*5帰命せよ(浄土和讃・浄土真宗聖典(註釈版)P569・法蔵館の真宗聖典P228上段)
「念仏成仏」が、阿弥陀仏の選択本願です。南無阿弥陀仏を疑い無く聞いた信心で救われます。
諸善万行を実行して救われよというのが仮門であり方便です。
その方便と真実の違いがわからないから、阿弥陀仏の浄土をとうてい知ることが出来ないのであり、流転を重ねていくのだとおしえられています。
最後に「悲願の一乗帰命せよ」と勧められているのは、自分の力を加えてなんとかしようという心は捨てて、早く阿弥陀仏の第18願をたのみなさい、南無阿弥陀仏にまかせなさいと勧めておられます。
「無理だけどやりなさい」ではなくて、「自力では無理だから、自力を捨てよ」「自力の信心をもったまま他力になるこはないから、自力の信心を捨てなさい。直ちに他力に帰しなさい」と勧められています。
「難中之難」は、「自力では無理です」と、自力の信心、疑いを戒められたものです。「あなたは救われません」と言われたお言葉ではありません。一切自力は間に合わないから自力を捨てて他力に帰しなさいと言われています。