安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

自力を捨てろといわれても考えるほど無理ではないかと思います。(頂いた質問)

阿弥陀仏に救われるには自力を捨てよと聞きましたが、自力を捨てようとするのも自力だと聞くと、そもそも無理な話では無いかと思います。(頂いた質問)


自力を捨てよと聞きますと、どうしても自力とは何なのか?とか、何を捨てればいいのか?と考えてしまいます。
そこで、人によっては自力を探すことを求道のように思ってそれを追求しようとする人もあります。また、自力を「計らいだ」と聞くと、「考えること自体」が自力なのかと思い、そうすると「助かろうと思うこと」がそもそも自力なのだということになり行き詰まってしまう人もあります。
その結果「ただ聞け」とか「ただ念仏」という言い方を聞くと、「とにかく何も考えないようにして聞いていればいい」と考えてしまいます。しかし、それでは「何も考えないように」と考えているのでやはり自力は捨てたことになりません。
自力とはなにかについて、浄土真宗辞典から紹介します。
浄土真宗辞典

じりき 自力 他力に対する語。自ら修めた身・口・意の善根によって迷いを離れようとすること。『一多文意』には「自力といふは、わか身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり」(浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P688)とある。→じりきしん(自力心)

じりきしん 自力心 行者自身のはからい。自力によって浄土に往生しようとすることで、これを親鸞は阿弥陀仏の本願を疑う心とした。

ですから、自力を捨てよとは、言い替えると「自分の善い行いで浄土に往生しようとすることをやめよ」ということです。善い行いというと、なにか修行めいたことを想像されるかもしれませんが、「自身の浄土往生によかれと思ってやること」は全部自力となります。


お尋ねの方は、「まず自分が自力を捨て」てから、その後阿弥陀仏が救って下さると考えられておられるかもしれませんが、そうではありません。阿弥陀仏のただ今救うの仰せに従うままが、自力を捨てた(自分の善い行いで浄土に往生しようとすることをやめた)状態です。


自力を捨てるとは、言い替えると阿弥陀仏に救われることです。ですから、自力を捨てよとは、阿弥陀仏に救われて下さいと同じことです。阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏一つで救って下さいます。ただ南無阿弥陀仏を称え、聞いて、ただ今救うの仰せを受け入れ救われて下さい。