安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

疑い無いのが信心と聞きますが、疑いとは具体的にどのようなものをいうのでしょうか?」(頂いた質問)4回目_自力の信心について

疑い無いのが信心と聞きますが、疑いとは具体的にどのようなものをいうのでしょうか?(頂いた質問) - 安心問答(浄土真宗の信心について)
疑い無いのが信心と聞きますが、疑いとは具体的にどのようなものをいうのでしょうか?(頂いた質問)2_自力はどれだけ捨てようとしても自力になる理由 - 安心問答(浄土真宗の信心について)
「疑い無いのが信心と聞きますが、疑いとは具体的にどのようなものをいうのでしょうか?」(頂いた質問)3回目二心について - 安心問答(浄土真宗の信心について)
以前3回エントリーを書いた続きを書きます。

疑い無いのが信心と聞きますが、疑いとは具体的にどのようなものをいうのでしょうか?(頂いた質問)

親鸞聖人は、自力の信心を疑いといわれています。ここでいう自力の信心とは、第十九願と第二十願の信のことです。


第十九願については、教行信証化身土巻の要門釈に以下のように書かれています。

これによりて方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。(教行信証化身土巻_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P392)

http://goo.gl/0MZi9i

ここで、第十九願について仰り、「信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり」と言われています。また、「行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり」と言われています。そこで、この第十九願のことを「至心発願の願」と化土巻の最初に書かれています。


次に、第二十願については、同じく教行信証化身土巻の真門釈に以下のように書かれています。

いま方便真門の誓願について、行あり信あり。また真実あり方便あり。願とはすなはち植諸徳本の願これなり。行とはこれに二種あり。一つには善本、二つには徳本なり。信とはすなはち至心・回向・欲生の心これなり。(教行信証化土巻_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P397)

http://goo.gl/R9dNmm

ここで「信とはすなはち至心・回向・欲生の心これなり」といわれています。そこでこの第二十願のことを「至心回向の願」といわれています。


この至心発願、至心回向の信は、ともに自力の信心です。それに対して、第十八願の至心信楽は他力の信心です。他力の信心は、「無疑」ですが、その「疑」とはこの第十九願、第二十願の信ということになります。ですから、自力の信心は、信じるそのまま「疑い」ということができます。


そのことを、正像末和讚の誡疑讃にいくつも以下のように書かれています。

(62)
罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて(正像末和讚_誡疑讃より_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P611)

http://goo.gl/2BDOx

(74)
罪福ふかく信じつつ
 善本修習するひとは(同上)

(79)
仏智不思議をうたがひて
 罪福信ずる有情は

似たような書き方は他にもありますが、3つだけ紹介しました。仏智の不思議を疑う人は、「罪福信ずる」人です。最後には「以上二十三首、仏不思議の弥陀の御ちかひをうたがふつみとがをしらせんとあらはせなり。」といわれ、「弥陀の御ちかひをうたがふ」罪を知らせるために書いたと言われています。本願を疑う人は、そのまま罪福を信ずる人であるから、「罪福信じる」ままが「弥陀の御誓いを疑う」ことになります。


この罪福を信じるとは、いわゆる信罪福の信のことです。別の言い方をすると、因果の道理を信じて、第十九願でいえば「修諸功徳の善」を実行して救われようとするものです。仏智の不思議である南無阿弥陀仏を信じずに、因果の道理を信じて善に励んでいるわけです。その信心そのものが疑いであるからそれを捨てよといわれています。


「罪福信じる」という自力の信心は、自力の信心であるがゆえに「これで間違いない」と確信的な信心です。それそのものが「疑い」であると親鸞聖人は言われています。「これだけ○○しているのだから、間違いなく救いに近づいている。そうでない人はみな滝壷に向かっているのだ」などと固く信じているのは、それこそが疑いであると親鸞聖人は教えられています。


ただちにその自力の信心(疑い)を離れて、ただ今南無阿弥陀仏を聞いて救われてください。