安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

疑い無いのが信心と聞きますが、疑いとは具体的にどのようなものをいうのでしょうか?(頂いた質問)

疑い無いのが信心と聞きますが、疑いとは具体的にどのようなものをいうのでしょうか?(頂いた質問)

親鸞聖人の書かれたものの中で、疑いについて言われている部分はいくつもありますが、その中から今回は一つ紹介します。


疑いを無明といわれた部分

「摂取心光常照護」といふは、信心をえたる人をば、無碍光仏の心光つねに照らし護りたまふゆゑに、無明の闇はれ、生死のながき夜すでに暁になりぬとしるべしとなり。「已能雖破無明闇」といふは、このこころなり、信心をうれば暁になるがごとしとしるべし。(尊号真像銘文)

この尊号真像銘文は、正信偈のご文について親鸞聖人自らが解説をされているところです。
信心をえた人は「無明の闇はれ」といわれているので、ここでいわれる「無明の闇」は信心に対する言葉になります。したがって、「疑い」と「無明の闇」は同じ意味として親鸞聖人は書かれています。


無明とは、元々仏教一般では迷いのことを言われています。

無明 むみょう[s:avidy]
漢語<無明(明無し)>は目が見えない意で、転じて、聡明さに欠ける意。仏教語としての無明は、人生や事者の真相に明らかでないこと、すなわち、すべては無常であり固定的なものはなにもない<無我>という事実に無知なこと。この無明がもとで固執の念<我見>をおこし、さらに種々の煩悩の発生となる(以下略)
(岩波 仏教辞典 第二版より)

しかし、ここでいわれる「無明の闇」は「疑無明」ともいわれ、本願に対する疑いのことをいわれています。では、なぜ疑いを迷いの元のようにいわれるのかといえば、阿弥陀仏の本願はすでに成就しており、その救いの法である南無阿弥陀仏はすでに私に向かって働いているからです。


助かる法があるにもかかわらず、それを疑いはねつけているためにまた生死に迷っていくのですから、疑いを迷いの元と言われています。無碍光仏のお働きである光明を自らはねつけ、自分を闇に閉じこめているのですから、このはねつけていることが疑いであり無明の闇といわれるものです。


疑いについては、親鸞聖人が書かれたものに他にいくつも別の言葉でかかれているものがあるので、何回かに分けて投稿をいたします。