安心問答(浄土真宗の信心について)

浄土真宗の信心についての問答

「疑い無いのが信心と聞きますが、疑いとは具体的にどのようなものをいうのでしょうか?」(頂いた質問)3回目二心について

疑い無いのが信心と聞きますが、疑いとは具体的にどのようなものをいうのでしょうか?(頂いた質問) - 安心問答(浄土真宗の信心について)
疑い無いのが信心と聞きますが、疑いとは具体的にどのようなものをいうのでしょうか?(頂いた質問)2_自力はどれだけ捨てようとしても自力になる理由 - 安心問答(浄土真宗の信心について)

以前2回エントリーを書いた続きを書きます。

疑い無いのが信心と聞きますが、疑いとは具体的にどのようなものをいうのでしょうか?(頂いた質問)

親鸞聖人がいわれる信心に対する「疑い」について、今回は3回目です。
1回目は、無明について書きました。
2回目は、自力心または自力の心について書きました。
3回目は、「二心」について書きます。

親鸞聖人は、教行信証信巻に以下のように書かれています。

「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。(教行信証信巻末_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P251)

http://goo.gl/fw2nQ

ここで信心は「二心ない(無二心)」ことであるといわれています。親鸞聖人の言われる「信心」は「無疑心」ですから、このご文から言えばとは「信心」に対する言葉なので、疑いをここで「二心」と言われていることがわかります。

一般に二心とは、「あちらにするか、こちらにするか」と一つに決められないという意味に使われていています。しかし、そのように決められないというのも、善か悪か正か邪かといういわゆる善悪正邪という二つのことに分けて考える分別の立場からいわれたものともいえます。

それに対して、他力信心は無二心ですから、そのような善悪正邪という、AでなければBだという立場ではないものだといえます。反対に、一般的にいわれる「信心」とか「信仰」といわれるものは、正しいか間違いかという議論になった時、間違いと言われた側は「自分の信心は間違っていない」という証明に力をいれます。そして、外部から「お前の信心は間違いだ」と圧力を受ければ受けるほどますます頑固になり「自分の信心は間違いない」という信心に凝り固まっていきます。だから「百万人の人が違うといっても私の信心は間違いない」と表明できる人を「強い信仰を持った人」とか「信心深い人」と言ったりします。


しかし、そのような信心はいわゆるカルト宗教の信心となにも変わりません。彼らの信心は、外部から攻撃を受ければ受けるほど「これこそ真実」と内輪に固まっていきます。しかし、浄土真宗の信心、他力信心とはそのような内輪に固まっていく信心ではありません。なぜなら、信心そのものは私の持ち物ではないからです。信心とは、南無阿弥陀仏そのものであり名号がその体となります。ですから、信心は私の側ではなく仏の側にあるので、「お前の信心は〜」といわれたところで、それは「私の持ち物」でない以上、固執する必要はなにもありません。

信心とは何か?あぁでなければ、こう、こうでなければあぁという議論は、信心を自分の持ち物のように思い、その上で何が正しいか間違いかと考えるところから来ます。信心とは、名号を聞いたことであって、そのような善悪正邪の立場を離れたものです。それを二心ないと親鸞聖人は言われました。


疑いとは何かという問いも、親鸞聖人の教えを知るという意味では大事なことです。しかし、あくまでも信心とは南無阿弥陀仏を聞いていることです。ただ今聞いて救われるのが阿弥陀仏の救いです。