安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「真宗人としての理想的な死に方(臨終の迎え方)」というものがあるのなら教えてください。(ひなさんのコメントより)

ひな 2013/07/14 23:18
「真宗人としての生き方」が出たついでに…と言ってはなんですが、「真宗人としての死に方」についてお尋ね致します。
加茂仰順和上は、「やはり、真宗も臨終が非常に大事なんです。(参らせてもらいます)と思うて、息を切りなさい。」と仰っておられます。
私は、真宗人は「狂乱往生」でもなんでも構わないと思っていたので、この言葉は以外でした。
「真宗人としての理想的な死に方(臨終の迎え方)」というものがあるのなら教えてください。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130713/1373705950#c1373811485

加茂和上のこの本は読んだことがないので、前後を読んでない上で書きます。
私の感想としては、二通りの読み方ができると思います。


一つは、平生にどれだけ有り難いと思って、救われたつもりになっていたとして臨終で崩れては困ります。いざ臨終となったときに「参らせてもらいます」という信心でなければ、真実信心ではないということを言わんとしたものではないかと思います。
二つは、臨終といっても、いつそれを迎えるかはわかりません。「いつが臨終か?」と考えて見れば「ただ今」のことです。ですから、ただ今「参らせてもらいます」と思って一息を継いでいきなさいと言われたものではないかと思います。


「信州人としての理想的な死に方」というものは、特にお聖教には載ってはいません。ひろしさんのコメントにもありますが、浄土真宗は臨終の様子を問題にしないからです。あくまでも、ただ今南無阿弥陀仏を聞いて疑い無い信心一つで浄土往生をする身になることが大事です。


その上で、念仏者にとっての「臨終」とは「死ぬ」ではなく「浄土往生する」ことです。死に方と一般に言われるのは、念仏者にとっては浄土往生の仕方ということになります。そうなると、それは本願念仏のお働きによって往生させて頂くものですから、私の思った通りにならないものということになります。

法然聖人のお歌の中に

いけらは念仏の功つもり、しなは浄土へまいりなん。(勅修御伝二十一巻)

というのがあります。
「生けらば念仏の功つもり、死なば浄土へまいりなん」とは、本願に救われた上で命が延びればそのぶん念仏を申すことで、念仏の功徳のお働きにより育てられ、この命が尽きたなら浄土に往生させていただきますと言われたものです。

生きいいればそれだけ「念仏の功つもり」でお育ていただくのであり、死ぬとは浄土に往生するのだから、生きていても命が終わってもどちらでも有り難いことだといわれたものです。

その意味で「理想的な死に方」というのは、特にありませんが、そのような気持ちで日々念仏の生活をするのがいいことだと思います。
その上で、いつ死ぬかはわかりませんが、先立つ自分を見送る家族や知人の中に、一人でも本願を信じ念仏する人がいるのが、「理想的な死に方」がなにかはわかりませんが、よいことではないかと私は思います。

ひなさんのコメントについての皆さんのコメント

一念坊主 2013/07/15 04:41
私は「なんまんだぶ なんまんだぶ」称えながら、死んで行きたい

南無阿弥陀仏


ひな 2013/07/15 08:04
一念坊主様、同感です。

私も「なんまんだぶなんまんだぶ」と称えながら死んでいきたいです。


一念坊主 2013/07/15 09:16
「なんまんだぶ」も称えられないほど死が差し迫ったとき、例えば交通事故とか、戦国の昔なら戦闘のときとか、には「なむ三」なのでしょうね。
私の知り合いで、車のナンバーを「・763」にして乗っている人がありましたが。どんだけの緊張感で生きているのか、と思ったものです。


ひろし 2013/07/15 13:02
ひなさん、こんにちは。
京都の十条でお会いした事のある者です。
四種往生は安心決定抄に出てくる言葉だと思います。
浄土宗では臨終来迎を問題にしますので臨終が問われますが、浄土真宗では御存知の通り臨終の善悪を問いません。
加茂和上の本は、私も5冊ほど持っておりますが、どの本に出てくる言葉でしょうか?
推測ですが、加茂和上は臨終の善悪で往生が左右されるのではなく、臨終にの心構えを仰ったお言葉と思います。
源信和尚の往生要集には臨終行儀が書かれていて、その中に三種の愛心も書かれています。
当生愛は未来生まれる世界への愛着心で、「間違いなく極楽往生させて頂きます」という心持ちで念仏させて頂く、という事が大切だという事だと思います。
臨終行儀には、後の浄土宗の人が儀式を書いていますが、儀式は必要無いですね。
藤原頼道が阿弥陀仏の像と自分の指を糸で繋いで極楽往生を願ったそうですが、真宗人には関係ないですね。


たかぼー 2013/07/15 15:00
私は、臨終に称えても称えられなくても、どちらでもいいです。