安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

異議あり、です。「南無阿弥陀仏を聞いて疑い無い」は阿弥陀仏に救われることそのものをいうのであり、「自分の方は一切変わる必要がなかった」ということを知らされた、というのは、阿弥陀仏に救われた結果、行者の心裡に生じることなので、イコールの関係ではないでしょう。(一念坊主さんのコメントより)

前回のエントリーについて一念坊主さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

一念坊主 2013/07/11 22:30
>>山も山さん、「南無阿弥陀仏を聞いて疑い無い」とは「自分の方は一切変わる必要がなかった」ということを知らされたという意味ですよね?

>結論からいいますと、そのとおりです。

異議あり、です。
「南無阿弥陀仏を聞いて疑い無い」は阿弥陀仏に救われることそのものをいうのであり、
「自分の方は一切変わる必要がなかった」ということを知らされた、というのは、
阿弥陀仏に救われた結果、行者の心裡に生じることなので、イコールの関係ではないでしょう。

言いかえれば、阿弥陀仏の救いとは、阿弥陀仏の本願への疑い(自力)を除くことそのものなので、
「救われるためには自分は変わらねばならい」という、自力から生じている想いの一つが、
信後になくなるのは至極当たり前のことと言えます。

「自分の方は一切変わる必要がなかった」と知らされることには大きな意味があるとは思いますが、疑おうと思っても全く疑いの出なくなったことの方こそ、もっともっと大きな意味があるのであり、まさに阿弥陀仏の本願力の偉大さであり、報謝しても尽くせぬ御恩の由縁でありましょう。

南無阿弥陀仏

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130711/1373533862#c1373549454

この一念坊主さんのコメントに対する、たかぼーさんのコメントを紹介します。

たかぼー 2013/07/12 11:30
 「ピアノの時間を割いて法を求めないと信心決定できない」とか「ピアノの時間を割いて法を求めれば救われるのではないか」などという思いは、自分のあり方を如来の救いに関連づけている心です。このような思いは、そのまま救うという如来の仰せを受け入れずに反発している心であり、これを祖師は信巻に「疑蓋」と言われています。「疑」とは、そのまま救うという如来の仰せをそのとおりに受け入れることができない状態のことですから、如来の願心に対する「疑」とされます。また「蓋」とは、自分の心に蓋をしてしまい本願を仰せを受け付けないということから「蓋」とされます。「自分のあり方を如来の救いに関連づけている自らの心」が自分の心の疑蓋となってしまい、如来の仰せをそのまま受け付けないのです。この疑蓋を化身土巻では「自力の心」とも言われています。この疑蓋(自力の心)が消尽しますと、如来の仰せをそのまま受け容れることができるので、常に如来の仰せを仰信することができるのです。
 如来の願心を仰信することを他力の信と言いますが、この仰信は自力の心を離れるということです。祖師は、化身土巻に「横超というは本願を憶念して自力の心をはなる」と言われ、また唯信抄文意の冒頭に「本願他力をたのみて自力の心をはなれたるこれを唯信という」と言われています。すなわち、他力の信とは、自力の心を離れるということと同じことです。自力の心を離れることができなければ本願を仰信することはできません。自力の心を離れれば本願の仰せをそのまま仰信することができるのです。そして、自力の思いから離れられるのは、自力無功であることを信知するからです。また本願を仰信するということは本願乗託を信知することです。この自力無功を信知するのが機の深信であり、本願乗託を信知するのを法の深信といいます。この機法二種の深信は他力信の特徴でありますが、1つの信を視点を変えて述べているものです。
 さて、長々とあたりまえにことを述べてきましたが、「ピアノの時間を割いて法を求めないと信心決定できない」とか「ピアノの時間を割いて法を求めれば救われるのではないか。」などという心に代表される自力の心が消尽するのは、先に述べたとおり、「自分のあり方は如来の救いに一切役に立たない」と信知することにより消尽するものです。「自分の方は一切変わる必要がなかった」ということを知らされたというひなさんの思いは、その信知を彼女なりの表現で述べたものであると理解できます。それ故に、「そのままだ!! ピアノを3時間弾いているまま救うのが「阿弥陀仏の本願」だ!!!」と本願を仰信していることになるのです。私はよく「如来のお救いはそのままのお救いであり、私の方で用意するものは何もなかった。」と言いますが、これもそのことを指したものです。如来の救いとは、このような疑蓋無雑の無疑信になるということです。この無疑信以外に如来の救いはありません。
 ところで、一念坊主さんは「救われるためには自分は変わらねばならい」という思いは、自力から生じている想いの「1つ」であると言われていますが、ひなさんは、自分の方は「一切変わる必要がなかった」ということを言われているので、自力の思いの「1つ」について言われているわけではありません。「自分のあり方の一切」について言われています。おおよそ「自分のあり方」は如来のお救いに役立つのではないから、「自分が変わることは一切必要ない」ということになるのです。ひなさんの味わいを理解するとこのようになります。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130711/1373533862#c1373596256

私の意見をここから書きます。
一念坊主さんの仰る、「「南無阿弥陀仏を聞いて疑い無い」は阿弥陀仏に救われることそのものをいう」のは、その通りです。そこで、阿弥陀仏に救われる(いわゆる信心)と、信心を獲たその人の心境を混同して書くのはよろしくないということだと思います。

今回のひなさんのコメントからいえば「『南無阿弥陀仏を聞いて』疑い無い」のなかの「南無阿弥陀仏を聞いた」ということについて、「自分の方は一切変わる必要はない」阿弥陀仏の仰せを聞いたというように私は理解しました。

確かに、信心というのは疑蓋無雑といわれるように、疑いのないのが信心です。しかし、一方、そうに書きますと、「疑いがなくなったなら何があるの?無なの?」と疑問に思われるかたもあります。ひなさんの疑問というのは、そこから元々起きてきたものだと私は考えました。

「疑い無い」のが信心ですが、そうなると「信心を獲る」という言葉が、「無いものを獲る」ということになり、少々理解に苦しむ表現になってしまいます。信心とはあくまで「南無阿弥陀仏を聞いて」疑い無いのでありますから、何もないのではなく、「南無阿弥陀仏」を「聞いている」ということがあるのです。その仰せを、ひなさんのコメントでは「自分の方は一切変わる必要がなかった」と書かれました。確かに、受け取ったうえでのその人の感想ですから、厳密にいえば違うということにります。ただ、一念坊主さんのように「疑い無い」を強調すると、「何があるの?」と思う人もあると思い、今回はそう表現しました。

そこで、「南無阿弥陀仏を聞いて」という意味では、同じでよいのではないかと思いそのように書きました。