安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「生まれついてのままに念仏する人」とは善人でも悪人でもない人ということですか?(ひなさんのコメントより)

ひな 2013/07/12 09:06
山も山さん、丁寧に教えて下さいましてありがとうございます。

「私を救う働きである南無阿弥陀仏は、十劫の昔にすでに成就していた」んですよね・・。
庄松同行が病人の家に招かれて、
「オラやお前を生まれさせずば、
 正覚取らぬと誓いをたてた仏が、
 今ここに正覚取ってあるじゃないか、
 これでも不足なのか!」と言った言葉を思い出します。
それなのに私は、「自分でなんとかします。私のことは放っておいて下さい!」と阿弥陀様から逃げ回っていましたね・・・。

「南無阿弥陀仏は常に私を救うために現在の私に応じて救いの手を差し出しておられる」ということは、本当にわからなかったですね・・・。
親鸞会で「宿善を積む」という教義を刷り込まれていたせいか、「ただ今の救い」をいつも「ずっと先の救い」にしていました。
(宿善を積んでいない間は、求道はストップしている。)と思い込んでいましたね・・・。
とにかく「自分が動かないことには何一つ進まない」という考え方でガチガチに固まっていました。

だから、山も山さんから「我々が寝ている間も阿弥陀仏は働き続けておられます。」と聞いた時には、
(へぇ〜そうなんだ・・・でも本当かな?)となんだか不思議に思ったことを覚えています。
今は、阿弥陀様からの一方的なお育てにあずかり、一念もわからないまま救われていくのが「他力のお救い」なのだな・・・と知らされています。

ところで一つわからないことがあるのですが、この「生まれついてのままに念仏する人」とは善人でも悪人でもない人ということですか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130711/1373533862#c1373587579

たかぼー 2013/07/12 13:22
「生まれついてのままに念仏する人」というのは、文意からすれば、「ありのままに」ということでしょうね。ありのままの自分に変更を加えようとしないで念仏するということです。如来から与えられた御名のままに、計らう心をまじえずに自然法爾のままに念仏するということです。 出しゃばり、御免下さい。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130711/1373533862#c1373602923

たかぼーさんが書かれていますが、ここでは「ありのままに」という意味が適当と思います。でしゃばり歓迎ですので、どなたでも思われることはどんどん書いてください。


仏教では、さとりを目指して修業を続けている人は、三祇百大劫の長期間の修業の末、仏の覚りを開くと説かれています。そうなりますと、当然のことながら、一生で修業が成就しません。そこで、何度も何度も生まれ変わりながら修業を続けている人を、一応善人としますと、その人は生まれついての上では「善人」ということができます。反対に、そのような修業を過去においてしたこともなく、仏になろうと思ったことも無い人は生まれついたときは「悪人」と一応いうことはできます。


しかし、そのような何度も生まれ変わりしながら修業を続けて来た「善人」であれ、過去において修業とか、仏道を考えたこともない「悪人」であっても、どんな人でも念仏に手助けを加えずに念仏する人は浄土に往生するのだと説かれているものです。


ただここで「善人」「悪人」と呼ばれているのも、一応の便宜上のものであって過去に仏道を求めたことの無かった人が、この生に於いて絶対に仏法を聞き求めることはないということはありません。反対に、過去に仏道を求めたことのある人が、この生において死ぬまで仏道を求め続けるということは不退転の覚りまでいかねば絶対にあるとは言えないことです。


どんな人であっても、この「ただ今」において「修業を加えねば」「悪人の自覚をせねば」救われないという「他力念仏に手助けを加える」のは間違いであり、そのような人は報土往生できないといわれたものです。