安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「疑い晴らすのも、信じさせるのも阿弥陀仏のお力だと聞いていますが、そうならばなぜ今自分は救われていないのかと考えてしまいます。」(頂いた質問)

疑い晴らすのも、信じさせるのも阿弥陀仏のお力だと聞いていますが、そうならばなぜ今自分は救われていないのかと考えてしまいます。(頂いた質問)

疑いを晴らさせると信じさせるは、言葉は違っても一つのことを言っています。
疑いを晴らさせてから信じるのでもなく、信じさせてから疑いが晴れるのではありません。

言葉の意味から言えば、真宗で疑いが晴れたといっても、信じたといっても、ともに本願を聞いたということです。浄土真宗での言葉の定義は、一般に使われるものとは違うものがあります。その中でも代表的なものが、信(または信心)と疑(または疑い)です。

信心については「聞いたことを信心」と言われています。

きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。(一念多念証文)

http://goo.gl/QGk8W9

本願を聞いて疑う心のないことを聞いたことだと言い、その「聞」が信心なのだといわれています。
一般に使われる、目の前にないものを心で信じること信心とはいいません。親鸞聖人は、ただ今救うの本願をただ今聞いている状態を信心というのだといわれています。

そこで、疑は、本願を疑うことであり、本願を聞いていない状態を指して使われています。ですから、信心については「疑蓋無雑」といわれています。疑い無い(無疑)が信心ですから、信心でない状態を疑といいます。

疑いを晴らしてから信心を与えられるというように考えていると、まず自分の心の中に「うたがい」を探そうとします。しかし、本願を抜きに自分の心の中を探してもそんなものは出てきません。なぜなら、本願を聞いていないその状態がそのまま「疑」であり「自力」だからです。

浅原才市さんの詩にもこんなものがあります。

世界に自力なし、
我心こそ自力なり、
自力が、他力にして貰て、
今わあなたと申す念仏

どこかに自力(疑い)があるのではなく、本願を聞いていない私がそのまま自力(疑)だと言うことです。自力が他力にしていただくというのも、聞かないものが本願を聞いたということです。それを聞かせるのは、南無阿弥陀仏のお働きです。南無阿弥陀仏と、南無阿弥陀仏を聞いてください