安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「真宗人としての生き方とはなんでしょうか?」(頂いた質問)

真宗人としての生き方とはなんでしょうか?(頂いた質問)

真宗人といわれるのは、浄土真宗(阿弥陀仏の第十八願)の通りに生きる人だと思います。したがって、阿弥陀仏の第18願の通りに生きる人とは、ただ今阿弥陀仏に救われた人であり、信心決定の身になった人のことです。


「浄土真宗を信じています」というならば、阿弥陀仏の本願に救われるのが、大前提です。その上で、阿弥陀仏に救われた人はどうするべきなのということについて、親鸞聖人はどのように教えられているのかについて以下、書いていきます。

大きく分けると二つになります。

  1. 阿弥陀仏の本願を伝えよ
  2. 愚者になって念仏せよ

1.阿弥陀仏の本願を伝えよ

これについては、正像末和讚に言われています。

(87)
他力の信をえんひとは
 仏恩報ぜんためにとて
 如来二種の回向を
 十方にひとしくひろむべし(正像末和讃_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P616)

http://goo.gl/pZLNY

阿弥陀仏に救われた人、他力の信を獲た人は阿弥陀仏のご恩を報ずるために、阿弥陀仏の本願力を全て人に弘めなさいとと言われています。
実際に、阿弥陀仏の本願力によって救われた人は、阿弥陀仏から本願力回向を頂いて、浄土に往生するお働きと、浄土から還ってきて衆生を済度するお働きを頂きます。その意味では、生きている間は確かに還相の菩薩として衆生済度することはできません。しかし、本願念仏を命のあるあいだ、有縁の人に伝えることをさせていただくというのが、親鸞聖人のご生涯の通りの行き方です。

2.愚者になって念仏せよ

これについて、御消息に親鸞聖人は書かれています。

故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしことを、たしかにうけたまはり候ひしうへに、ものもおぼえぬあさましきひとびとのまゐりたるを御覧じては、「往生必定すべし」とて、笑ませたまひしをみまゐらせ候ひき。文沙汰して、さかさかしきひとのまゐりたるをば、「往生はいかがあらんずらん」と、たしかにうけたまはりき。(親鸞聖人御消息(16)_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P771)

http://goo.gl/v8P7d

親鸞聖人は、すでにお亡くなりになった法然聖人から「阿弥陀仏の本願を信ずる人は愚者になって往生する」と仰ったことを確かにお聞きになられました。その上で、法然聖人がものを覚えない人たちが法話に参詣することをご覧になっては「あのような人たちが往生するのは間違いない」と、微笑んでご覧になっていることを、親鸞聖人はご覧になられました。また、お聖教のご文をいろいろと出しては、いかにも賢明な振る舞いをする人を「往生はできるのだろうか」と、確かに仰ったことを親鸞聖人はお聞きになりました。


これは、法然聖人が聖道門の修行者の生き方と、浄土門の念仏者の生き方の違いを仰ったものです。聖道門の修行者は、智慧を磨いて仏の覚りを目指すという生き方です。それに対して、阿弥陀仏の救いを聞いている人は、智慧を磨いていく生き方はしません。「愚者になりて往生す」といわれたのは、今日でいえば、やたらと学者とならず、市井の念仏者として一生を過ごしていけよということになると思います。実際に、親鸞聖人は「教団」を形成することもなく、「教祖」となる生き方を否定されていました。ただひたすらに「愚者」という立場で、念仏の法を伝えていかれました。


そのことを仰っているのが、蓮如上人の御一代記聞書に出てくるお言葉です。

一 聖教よみの、仏法を申したてたることはなく候ふ。尼入道のたぐひのたふとやありがたやと申され候ふをききては、人が信をとると、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふよしに候ふ。なにもしらねども、仏の加備力のゆゑに尼入道などのよろこばるるをききては、人も信をとるなり。聖教をよめども、名聞がさきにたちて心には法なきゆゑに、人の信用なきなり。(御一代記聞書_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1262)
(現代語訳)
「人前で聖教を読み聞かせるものが、仏法の真意を説きひろめたというためしはない。
 文字も知らない尼や入道などが、尊いことだ、ありがたいことだと、み教えを喜ぶのを聞いて、人々は信心を得るのである」と、蓮如上人は仰せになったということです。
聖教について何一つ知らなくても、仏がお力を加えてくださるから、尼や入道などが喜ぶのを聞いて,人々は信心を得るのです。
聖教を読み聞かせることができても、名声を求めることばかりが先に立って、心がご法義をいただいていないから、人から信用されないのです。

http://goo.gl/nmuQ0

ここで言われているのは、ことさら「アホになろうと努力せよ」ということではありません。「アホになろう」と努力する人は、本当の意味では「愚者」「尼入道のたぐひ」ではありません。


ただひたすら、念仏をし、南無阿弥陀仏を聞いて人に伝える以外にないというのが真宗人の生き方です。そのように私は思いますが、異論のある方もあると思います。このようなブログを、何年も書いていることはどうなのかとか、そういう葛藤もあるのが私自身です。とはいっても、有縁の人に、形はどうあれ阿弥陀仏の救いを知ってもらいたいという気持ちで日々生きています。それは命がある間は、かわりません。