安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「信心決定したら私の中の何処かに揺るぎないものが形成されるのでしょうか」(みそみそさんのコメントより)

みそみそ 2020-06-08 22:10:38

信心決定するということは絶対の幸福になるということでしょうか?
信心決定した人の話を聞くと何か自分には理解不能な高い境地に入り、心の中に揺るぎないものが形成され、人生に対する根本的な執着から解放されたかのようなお話を聞きます。
親鸞会の定義とは少々異なりますが、わたし的にはこれが信心決定することであり、絶対の幸福になること定義しています。
その上でお尋ねしたいのですがその認識は誤りですか?

そうだとしたらどのような状態になることを信心決定と言うのでしょうか?
そして、信心決定したら私の中の何処かに揺るぎないものが形成されるのでしょうかが

https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2020/05/19/223142

ミシン 2020-06-09 08:33:47

信心決定するとは「自力の心(阿弥陀仏の本願を疑う心)」がなくなることです。
一度自力の心が阿弥陀仏によって取り払われると、もう二度と出てきませんので、そこの部分は揺るぎないと言えますが、それ以外はグラグラですよ(笑)

みそみそ 2020-06-09 21:01:23

そもそも疑いがなくなるとはどういうことでしょうか?
そもそも我々の知る現実や常識の世界を超越した物語(弥陀の生起本末)をどうやって疑いなく聞き入れることができるのでしょうか?
どこまで行っても生起本末のお話はそう思い込むことによって自分を慰めるだけのものにしかなりません。
だから本当に疑心の晴れた人を見ると自分には理解できない超常的な境地に立ってるようにしか見えません。
なので信心決定は自分には到底たどり着けない特別な世界に思えてしまいます。

信心決定とは、本願を聞いて疑いないことです。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文)

これ以外に、コメントで書かれたような超常的な境地のようなものはありません。ただ今助けるのが阿弥陀仏の仰せですが、それを文字通りに聞いているのが聞いて疑い無いことであり、これが信心であると言われています。

そこで、仏願の生起本末をお話しとして思い込むことではなく、南無阿弥陀仏を「南無阿弥陀仏」と聞くことが聞いたということです。その南無阿弥陀仏の謂れが仏願の生起本末です。
南無阿弥陀仏について、何かのまじないのように聞くのではなく、救いの法そのものとして聞くのが聞いたということです。まじないのように聞くというのは、南無阿弥陀仏と称え聞くことと、実際に救う働きが何か別のことのように思うことです。南無阿弥陀仏と称えることも聞くことも信心も別のことではありません。

南無阿弥陀仏を称え聞く以外に、何か聞くことや信心があるかのように思っている状態が疑っているということです。ただ今助ける南無阿弥陀仏を聞いても、さらにどうやって助けてくれるのかとか、大変な境地に立った状態になるのかというように考えるのも疑いです。

ですから、たどり着く場所や境地ではなく、現に今南無阿弥陀仏と称え聞いているのでしたら、それを称え聞くままが信心ということです。その南無阿弥陀仏を聞いて疑い無いのが信心です。そのただ今助けるの仰せを聞いてただ今救われて下さい。


続きです。
anjinmondou.hatenablog.jp