安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「蓮の華のようにポンと一気に信心の華が開く人がいます。その一方で、菊の花のように少しづつジワジワと咲いていって「気が付いたら信後だった・・・」という人もいます。このように人によって獲信の仕方が違うのは、どうしてでしょうか?」(ひなさんのコメントより)

ひなさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

ひな 2013/07/04 08:25
(略)
蓮の華のようにポンと一気に信心の華が開く人がいます。
その一方で、菊の花のように少しづつジワジワと咲いていって「気が付いたら信後だった・・・」という人もいます。
このように人によって獲信の仕方が違うのは、どうしてでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130702/1372754329#c1372893908

獲信の仕方というか、獲信しているという自覚の仕方の違いということだと思います。
信心獲得そのものは、南無阿弥陀仏を聞いて疑い無いその時に定まるので、これは人によって異なるものではありません。


そこで、コメントにあるような救われた後の自覚の生じ方と時間的な違いは何によるのかと言えば、お聖教上の根拠は私もよく知りません。ただ、現実としていろいろな自覚のし方はあります。コメントにあるような「ポンと一気に」という人もあれば「ジワジワと咲いていって「気が付いたら信後だった…」」という人もあります。


その違いは何によるのかといえば、その人の感性と「信心とはこのようなもの」という思い込みがどれだけ強いかによるのだと思います。

例えば、「信心を獲たら踊り上がって喜ぶような心が絶対に起きるはず」と強く思い込んでいる人は、「そのような喜び」が起きない間は仮に救われていたとしても「自分は信心獲得している」という自覚はなかなか生まれません。なぜなら、信心を「強い喜びの感情」と思っているからです。


信心とは、本願を聞いて疑い無いことですから、言葉上の表現としては「南無阿弥陀仏を聞いて疑い無い」ならば信心といえます。ただ、「疑い無い」もやはり「こういうものだろう」という思い込みが強いと、「自分が思っていた『疑い無い』」と違うのでやはり時間がかかると思います。


それに対して「ポンと一気に」という人も、その時に救われたのかといわれればそれはわかりません。喜び方が、先に挙げたような人よりも大きいから、第三者から見ても分かりやすいのかもしれません。


法に対しての、自分のありようについての変わり目というのは、救われる前後であります。ただ、その違い目というのは、それまでの思い込みというノイズが強いと気がつきにくい人もあります。
反対に、その違い目に敏感に反応する人もあると思います。その辺は、心の柔軟さというか一般に感性といわれるものです。


疑いは晴れたけれどもこれでいいのだろうか?という疑問をもつか、疑い晴れて喜ぶか、人によっては思うことは違うでしょうが、「救われたつもり」はよくないので、まだ前者の方が健全な態度と私は思います。