安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

二種深信が「前後関係がある(前後起)」と考えてしまう理由を考える。

前回のエントリーで、二種深信について浄土真宗辞典から引用しました。

にしゅじんしん 二種深信
(略)
この二種深信は他力信心のすがたを示し、二種一具の関係にあって、別々のものでも矛盾するものでもなく、一つの信心の両面をあらわしている。なお、二種の心が並び起こるものである(二心並起)としたり、前後関係がある(前後起)とする異安心に対し、安心論題に「二種深信」が設けられている。(浄土真宗辞典

このなかで、二種深信が「前後関係がある(前後起)」と考えてしまう理由を考えてみました。

このような機の深信と法の深信に前後関係があると考えてしまうと、例えば「地獄行きと切り落とされてから、往生一定と知らされる」といった信心になってしまいます。もちろんこれは、真実信心ではありません。にもかかわらず、上記のような信心を「真実信心だ」と思う人がいるので過去から現在にいたるまで異安心問題が浄土真宗にはあります。


このように考えてしまう理由は、親鸞聖人の書かれた「教行信証」における「教」、「行」、「証」の関係についての理解が異なるからです。


前述した、二種深信を「前後起」と考える人は、A→B→Cのように考えています。このABCに相当するのが、「教」→「行」→「信」という考えです。

このような考えの一例を挙げると以下のようになります。

  • (例1)
    • 教えがある→
    • 教えの通りに実行する→
    • 実行したら信心が獲られる

これをさらに異義、異安心に当てはめると以下のようになります。

  • (例2)
    • 教えがある(善をしなければ信仰は進まないなど)→
    • 教えの通りに実行する(信仰が進むために善を実行する)→
    • 実行したら信心が獲られる(善を実行した結果、善ができない自分と知らされ、それによって阿弥陀仏に救われる身になる)

私も以前は上記のように考えていますした。しかし、実際に教行信証て書かれているなかでの教行証の関係は上記のようなものではありません。

まず、「教」とは、救われる道を教えたものです。その「これが救われる道です」と聞いて、「はい、そのようにその道を行きます」と道を進んでいる相が救われた相です。

そのように「何が救いか」と分からない人に対して「これが救いの道だ」と示すのが「教」です。その「教」によって、救われる道を知ることを「行」といいます。その救われる道とは、教行信証でいえば名号であり念仏です。

大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。(教行信証行巻 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版

http://goo.gl/zgpzwM

ここでは「無碍光如来の名を称する」ことが「大行」と言われています。このようにいわれるのも「教(大無量寿経)」には、南無阿弥陀仏(念仏)を頂いて称えなさいと説かれているからです。

そのように、「教(大無量寿経)」にあるように「南無阿弥陀仏を頂いて称え」てこれが「私が救われる道である」と聞いて疑い無いことを「信」といいます。

言い換えると、念仏(行)が私の助かる道と疑いなく聞き入れるのが「信」です。そして、「念仏が私の助かる道」と教えられるのは「教」です。ですから、「教」「行」「信」は同時に成り立つものです。

「教」→「行」→「信」ではなく
「教」によって「行」を信じるということであり、「信」によって、「教」にあらわられた「行」が私にそのまま働くということです。


ですから、どれが先で、どれが後ということはいいません。どんなに素晴らしい教えがあったとしても、「それは自分と無関係」と思っている人にとっては「教」はあってもないのと同じです。同様に「行」も「これが救われる道です」と聞いていても「それが自分の救われる道だ」と聞き入れなければあってもないのと同じです。その「教」に説かれた「行」を、聞き入れたことを「信」ということです。


それらは同時であって、時間的に前後はありません。上記のことから、二種深信の前後起は間違いということになります。