安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「私は(これが一味になるということなんだ・・・)とその時思ったのですが、これが「一味になる」ということでよろしいのでしょうか?」(ひなさんのコメントより)

ひなさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

ひな 2013/07/08 08:54
山も山さん、それではお言葉に甘えまして、さっそく質問をさせて頂きます。
まず、私の話を聞いて下さい。

私の目の前で獲信した人は、物心ついた時から仏教を聞いていました。
そして何十年間聞き続けても、聞き開けずに苦しむ両親の姿を見て育ちました。
だからそのせいで、成長するに従い阿弥陀仏を恨み呪うようになっていったのです・・・。
「阿弥陀仏を八つ裂きにしてばかりいた・・・」とその人は言っていました。
真っ暗な心を抱えて(こんな心で生きていくなら、死んだほうがマシだ・・・)と切羽詰まっていたそうです。

私はその人に「確かなものは南無阿弥陀仏だけだよ。」と言いました。
そしてお念仏を称えることを勧めたのです。
でもその人は「念仏なんか称えたくない!!」と拒否しました。
そして「世界中の人が救われても自分だけは救われない!!」と叫んだのです・・・。

私はそれを聞いて(この人は、もう機が見えてる・・・)と思い、阿弥陀様のお慈悲の話をしました。
「阿弥陀様は無分別智の方だから、自分と他人の区別をされないんだよ。
 阿弥陀様とあなたが少しでもズレていたら、そのズレている部分で気が付くんだけど、
 ピッタリと寄り添っていて下さるから、気が付かないだけなんだよ。
 阿弥陀様は、今ここであなたと一緒に苦しんでおられるんだよ。」
私がそう話すと、その人は、蓮の華がポンと開くように廻心しました。

そして「真っ暗だった心が、焼け野原みたいに何にも無くなった。でも何にも無い焼け野原に南無阿弥陀仏の旗が立ってる・・・」と言ったのです。
その言葉を聞いた時私は(えっ?!私と同じだ・・・!!)と驚きました・・・。
信後の人はみんな、阿弥陀様に疑情を全部取り払われて、「南無阿弥陀仏だけ」という心境になるなかな?と知らされた思いでした。
山も山さん、私は(これが一味になるということなんだ・・・)とその時思ったのですが、これが「一味になる」ということでよろしいのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130705/1372968533#c1373241275

まず、一味になるという言葉ですが、「味」という言葉から想像するような「味わい」が同じになるということではありません。味わいというのは、人によってことなるものだからです。

一味というのは、阿弥陀仏から賜る南無阿弥陀仏が同じであるという意味です。
コメントの文面で言うと

真っ暗だった心が、焼け野原みたいに何にも無くなった。でも何にも無い焼け野原に南無阿弥陀仏の旗が立ってる・・・(コメントより引用)

というのは、その人のいわゆる「味わい」といわれるものです。別の言い方で言えば「受け心」ともいいます。同じ南無阿弥陀仏を受け取ったとしても、人によってその感じ方や表現はことなります。
例えば、法然聖人や親鸞聖人のような方と、私の受け取り方はまた違います。それは、人が違うということもありますが、智慧も才覚もまったく異なるからです。

しかし、阿弥陀仏から賜る南無阿弥陀仏は同じです。そういう点で一味ということになります。
ひなさんが書かれた「ポンと蓮の花が開くように」とか「菊の花のように」というのは、その人の受け心であってそこが同じか違うかということをもって、「私は信心獲得した」というのは間違いです。

南無阿弥陀仏を聞いて疑い無いのが信心ですが、それはどんなものかと問われれば人によって表現は異なります。一人一人の「受け心」にすり合わせてみても、それは信心かどうかの判断にはなりません。


コメントの文中にあった人の表現が、ひなさんと同じであったということ「信心とはこういうもの」という固定概念を変える意味では大変よいご縁だったと思います。ただ、「あの人の味わいと同じだから」というのは信心かどうかの判断材料にはなりません。あくまでも、南無阿弥陀仏を聞いて疑い無いのが信心です。受け取り方が同じだから一味というのではなく、南無阿弥陀仏が同じという意味が一味という意味です。