安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「信心は本願を聞いて疑い無いものと聞きますが、そうすると救われる以前の聞こえ方は違うのですか?本願をそのまま聞いたそのときは、何が起きるのでしょうか?(頂いた質問)」

信心は本願を聞いて疑い無いものと聞きますが、そうすると救われる以前の聞こえ方は違うのですか?本願をそのまま聞いたそのときは、何が起きるのでしょうか?(頂いた質問)

本願を聞いても疑いばかりなのが信前ですから、本願を疑い無く聞いたときには必ず何かが沸き起こるのだろうと思ってしまいます。また、それを「決勝点」と称して聞法している人も多いです。


しかし、本願をそのまま聞いたときに何かが起きると思うのは間違いです。そう聞くと「何も変わらないなら救われてない状態と同じではないか?」と思います。誤解のないように付け加えますと、「私自身はなにも変わらない」という意味で何かが起きるのではありません。
何かが起きると思っている人は、いろいろな事を考えます。例えば、阿弥陀仏の本願が書かれたご文が光り輝いて見えるようになるのでは?などです。


私は、「教行信証がすらすら読めるようになる」「御文章の意味が全部わかるようになる」と自分に大変な変化が起きるように思ってました。あるいは、「すごい何かハッキリした確信が持てるようになる」「大歓喜が起きる」と期待してました。しかし、それらは全て私の思い込みであり、幻想でした。仮にそんなことが起きれば、救われたその時仏にでもなってしまう一益法門、一念覚知の異安心になります。


これら過去の私の考えは、信心を私の側で考えているの点が共通しています。「私の側で考える」とはどういうことか?それは「本願を聞く」「信心を獲る」の言葉を、「私が本願を聞いた」「私が信心を獲た」と、「私が○○したこと」にすることです。もし、それが救われたことなら、自分で何かをして救われたことになります。それは自力なので間違いです。

しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。(教行信証信巻(末)浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P251)

「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」が「聞」です。「聞即信」といわれるように、それが「信心」だといわれています。その「信心」は「本願力回向の信心」ですから、「私が○○した」ことではありません。


法をそのまま受け入れただけであった、そのとき何かが起きたわけではありません。何かが起きたとすれば、阿弥陀仏の方で本願成就されたときに起きたことで、私が何かをした結果が私の身の上に起きるのではありません。
何かが自分に起きると思うのは、信心を自分の行為や自分のものとしようとする考えで間違いです。信心は本願力回向されているものを受け入れることであって、つかみ取るものではありません。


ないものをつかもうとすれば、それこそ死ぬまで救われません。ないものをあると思うのは、迷いです。それを捨てて弥陀をたのめと親鸞聖人は勧められています。