安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「南無阿弥陀仏と称えていても、助かる人もいればやっぱりどうにもならない人もいるんじゃないだろうか。こんな気持ちで称えていて、「疑いなく聞き入れた状態」になれるとは思えない。」(死人さんのコメントより)

「お前は救えないからあきらめろ」といわれた方が気が楽なのが正直なところです。

死人さんよりコメントをいただきました。ありがとうございました。

死人 2013/06/11 20:19
PCを立ち上げる気力のない日もあるけど、山も山さんの記事、皆のコメントは読ませてもらっているよ。
とくよしみねさんのように「厳しいことをいうようだけれど」と前置きして書いてくれる人もいるが、内容はそのとおりだと思ったよ。
僕のためを思って書いてくれたんだと思う。

「過去にそれなりのこと」に関しては僕には分からないし、人の道に適った行動をとれと言われてももうすぐ消えるから許してほしいくらいにしか思えない。
そもそも嬉しいとか悲しいとかいう感情もあまりなくなってしまったからそんなに気にしないでほしい。
それよりも、僕のような人間のことを心配してくれる人が結構いたことの方が驚きだよ。
ありがとう。

僕が子供のころ、親に階段から突き落とされて足を折ったんだが「病院に連れて行って下さい」と土下座させられたよ。
周りの子は親に愛されて羨ましかった。
僕も同じように、親に認めてもらいたかっただけなんだが無理だったみたいだ。
阿弥陀仏は底辺の人間を救ってくれるというけれど、僕はどうしてもダメなんだ。
救ってくれるというのに、恨んでしまう。
どうせ助けてくれないのに、なんで希望を持たせるようなことを言うんだと思ってしまうんだ。
確実に死ぬ準備までしたのに。
生き物を殺してまで生きる価値なんて僕にはない。
だから僕が死ぬのは当たり前だとしても、ベジタリアンだった友達がなぜ苦しみ抜いて一人で死ななければならなかったのかと思ってしまう。
南無阿弥陀仏と称えていても、助かる人もいればやっぱりどうにもならない人もいるんじゃないだろうか。
こんな気持ちで称えていて、「疑いなく聞き入れた状態」になれるとは思えない。
「お前は救えないからあきらめろ」といわれた方が気が楽なのが正直なところです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130609/1370726888#c1370949548

この死人さんのコメントに複数のコメントをいただきました。有難うございました。

こんな気持ちで南無阿弥陀仏と称えていても救われないと思うのは、死人さんの判断から言われていることだと思います。
「こんな気持ちで称えていても」というのは、念仏に対して自分の心を加えて初めて結果が現れるという考え方です。「澄みきった心で称える」から浄土往生ができるのではありません。「散り乱れた心で称える」から浄土往生ができないのでもありません。

念仏には私の手助けを必要としないのだと、法然聖人も言われています。
法然上人のお言葉には、以下のようにあります。

又いはく、本願の念仏には、ひとりだちをせさせて助をささぬ也。助さす程の人は極楽の辺地にむまる。すけと申すは、智慧をも助にさし、持戒をもすけにさし、道心をも助にさし、慈悲をもすけにさす也。それに善人は善人ながら念仏し、悪人は悪人ながら念仏して、ただむまれつきてのままにて念仏する人を、念仏にすけささぬとは申すなり。(諸人伝説の詞)

阿弥陀仏の本願によって成就した南無阿弥陀仏の念仏は、それ単独で私を救うのであって称えるものの手助けを必要としません。手助けを必要とする人は、報土往生を遂げることはできません。「手助け」というのは、称える人が自分の知恵を手助けにし、戒律を守っていることを手助けにし、仏道を求める心を手助けにし、慈悲も手助けにする心です。
善人は善人のままで念仏をし、悪人は悪人のまま念仏をして、ただ生まれついたそのままに念仏する人を、念仏に手助けをしないというのだといわれています。


自分の「気持ち」が障害になったり、手助けになっていると思うのは、念仏に助をさすということです。過去に死人さんがいろいろな経験をされて、人を信用できないあるいは、自分を信用できないということはわかりました。しかし、阿弥陀仏はそうではありません。阿弥陀仏は貴方を試したり、陥れるようなことをされません。ただ救うだけが阿弥陀仏が阿弥陀仏になられた理由です。


南無阿弥陀仏に手を付けず、そのまま南無阿弥陀仏が救うお働きと聞いたのを信心といいます。必ずただ今救われます。