安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「認められない辛さを南無阿弥陀仏の功徳で癒すという使い方をしているようです。ただ今救われるであるべきはずがその場しのぎの念仏となってしまいます。自分の都合から強く求めてはいけないのでしょうか?」(1chさんのコメントより)

1ch 2013/10/19 10:56
南無阿弥陀仏の功徳は無限なので私の声の大小に左右されないということが理解できました。
小声でも念仏できそうです。問題を解決してくださってありがとうございます。

阿弥陀仏の働きについてお聞きしたいです。よろしくお願いします。
今救われると信じても信じきれないところがあるから私は救われていないのだと思います。
信じきれないという計らいが阿弥陀様の働きを妨げていると考えます。
称えているのを忘れてしまうぐらい称え続けていくことで自力が緩んだら、初めて阿弥陀様は自由に働いて自分を救うことができるのではと考えています。

声を押し殺して念仏を称えると自分の境遇都合を過剰に意識しながらということなので、我がままの凝り固まった状態を保ってしまうのではないかと思います。それが阿弥陀様が救う働きを妨げるのではないかと考えます。

つまり、
南無阿弥陀仏の働きは無限である。ただし自我の計らいがあるとこの身にわずかに働くことはあっても自由に働くことはない。わずかに働く程度では自我の悪い働きを抑制する(良心をいただく)程度で、浄土往生まではかなわない。
このように考えています。


以前かなりの怖れと悔しさ(認められなさ)を感じる場面で何もいらないと必死になって、もう念仏するしかなく、空気が均一になって広くなったことがありました。でもそれは魔境のようで、救われてはいませんでした。
阿弥陀仏を信じる気持ちは深まったものの自力に対する信頼も深まってしまいました。必死になったから救いに近いような状態になったのかもしれないという計らいになりました。

困った時に穏やかな気持ちに戻してもらうために南無阿弥陀仏を称えています。
道具として使ってしまうのは、悪い状態に陥ったり望まず悪いことをしてしまった時でも阿弥陀様だけは認めてくれる許してくれるという信頼の思いを感じるからだと思います。
辛い時やどうしようもない時の緊急避難として南無阿弥陀仏を称えています。

救われたい状態や辛さをその場しのぎでやり過ごすと、念仏申す切迫さがなくなります。自分には念仏することよりもその一時的な安心にありつくことやその安心を心に保っておけることの方が大切なようです。
不安があらわれていない一時的に安心な状態では、何から救われたいのかが実感として分からなくなります。念仏も称えていればいいとなりやすいです。

認められない辛さを南無阿弥陀仏の功徳で癒すという使い方をしているようです。ただ今救われるであるべきはずがその場しのぎの念仏となってしまいます。自分の都合から強く求めてはいけないのでしょうか?
自分の状況はともかくとして「阿弥陀仏のただ今救う、浄土に来れと呼びかけられる強い仰せ」に思いを馳せながら私の口から出た声をその思いとして聞くと解釈したのですが、間違いがあればご指摘お願いします。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20131018/1382072848#c1382147794

1chさんが、「信じ切る」といわれていることがよく分かりませんでした。コメントの文面からすると、「称えているのを忘れてしまうぐらい称え続けていくことで自力が緩んだら」と書かれています。そのような状態になったら「信じ切れる」ということだと理解されているのかと思います。もし、そうならばそれは違います。


なぜならば、「私が○○した結果自力が緩んで救われる」という話になれば、阿弥陀仏の救いに対して「私の手助け」が必要になってしまいます。しかし、念仏には私の手助けは元々必要ありません。法然聖人はこのようにいわれています。

又いはく、本願の念仏には、ひとりだちをせさせて助をささぬ也。助さす程の人は極楽の辺地にむまる。すけと申すは、智慧をも助にさし、持戒をもすけにさし、道心をも助にさし、慈悲をもすけにさす也。それに善人は善人ながら念仏し、悪人は悪人ながら念仏して、ただむまれつきてのままにて念仏する人を、念仏にすけささぬとは申すなり。(諸人伝説の詞)

このお言葉では、「すけ(手助け)」とは、自分の智慧や持戒や、道心を手助けにして救われようとすることです。しかし、そのような必要は念仏にはありません。


1chさんのコメント全般から思うことですが、「念仏に対してどう接すればいいのか」と考えることがそもそも「助をさす」ということです。阿弥陀仏が私を救うとの仰せが南無阿弥陀仏です。
「こう思ったら」と思うことではなく、自分の持ち前のまま救ってくださるお働きが南無阿弥陀仏です。「南無阿弥陀仏に対してこのような接し方はまずいのではないか」と阿弥陀仏の顔色を窺うようなことは不要です。そのまま聞いて救われてください。念仏は一時しのぎの薬ではありません。必ず浄土往生させ、仏にするというお働きです。

このエントリー投稿時点での他の方のコメント紹介

たかぼー 2013/10/19 12:30
自分の都合から念仏の功徳を求めるということは、南无阿弥陀仏を自分の救いの足しにしようとしていることと同じです。南无阿弥陀仏は自分の救いの足しにするものではありません。南无阿弥陀仏は「阿弥陀仏のただ今救う、浄土に来れと呼びかけられる強い仰せ」ですから、そのまま受け容れるだけです。


こくう 2013/10/19 12:53
末燈抄(十)に、

 これめでたく候う。かくめでたくはおおせ候えども、これみなわたくしの御はからいになりぬとおぼえ候う。ただ不思議と信ぜさせ給い候いぬるうえは、わずらわしきはからいはあるべからず候う。・・・みな一にて候うなり。これなまじいなる御はからいとぞんじ候う。仏智不思議と信ぜさせ給い候いなば、べちにわずらわしく、とかくの御はからいあるべからず候う。
 ただ人々のとかく申し候わんことをば、ごふしんあるべからず候う。

と。
誰人のいうことも、他人のいうことも・自分のいうことも、人々のとかく申し候わんこと。


>阿弥陀仏のただ今救う、浄土に来れと呼びかけられる強い仰せ」ですから、そのまま受け容れるだけです。
「そのまま受け容れるだけ」 ←ここが問題。


>ただ今南無阿弥陀仏のいわれを疑い無く聞いて救われてください。
「聞いて」 ←ここが問題。無耳人にかなわず・・・


shinrankaiuso 2013/10/19 13:56
無耳人とは、こくうさんのことではありません。

「返って九十五種の邪道に事ふ、我是の人を説きて眼無き人と名く、耳無き人と名く」(安楽集)

大聖易往とときたまふ
 浄土をうたがふ衆生をば
 無眼人とぞなづけたる
 無耳人とぞのべたまふ(浄土和讃)


たかぼー 2013/10/19 15:07
何が問題なのか、分かるように解説してもらえませんか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20131018/1382072848#c1382153407