安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「「南無阿弥陀仏を聞いて疑い無い」とは「自分の方は一切変わる必要がなかった」ということを知らされたという意味ですよね?」(ひなさんのコメントより)

ひな 2013/07/11 08:44
山も山さん、毎日暑いですね。
「南無阿弥陀仏を聞いて疑い無い」ということについてお尋ねしたいと思います。

ある人が「ピアノが好きで毎日3時間弾いているけど、仏教のことは寝る前に5分間考えているだけ。」と言っていました。
その人は(ピアノを弾く時間と仏教に使う時間を逆転させる気にならないから、自分は信心決定できないんだ・・・)と悩んでいました。
私は「宿善を積むという教えは間違いだから、仏教に使う5分間をもっと充実させることを考えてみては?」と答えました。

しかしその数日後、運転中の私は、自分が間違っていたことに気が付いたのです・・・。

   ちがう! そのままだ!! ピアノを3時間弾いているまま救うのが「阿弥陀仏の本願」だ!!!
   苦しいことは全部、法蔵菩薩様がかわりにやって下さったんだ・・・

そう思ったらかたじけなくて、涙が滝のようにダ〜ッと流れてきました。
もう「眼の前にワイパーください!」という状態で涙を拭いながら、私はお念仏を称えました・・・。

山も山さん、「南無阿弥陀仏を聞いて疑い無い」とは「自分の方は一切変わる必要がなかった」ということを知らされたという意味ですよね?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130708/1373274544#c1373499884

結論からいいますと、そのとおりです。

言い方としては二通りの言い方があります。

1つは、南無阿弥陀仏は阿弥陀仏が本願を成就され、阿弥陀仏となられた十劫の昔にすでに完成しているものだからという言い方です。

私を救うためにすでに完成している南無阿弥陀仏ですから、私を救う働きはその六字の中に収まっているということになります。私が何か変えなければ助けられない南無阿弥陀仏だということになりますと、コメントの文面では「ピアノを3時間弾く人は、ピアノを弾く時間を少なくしないと助けられない」ということになります。それでは、私を救う働きが「成就した」とはいえません。


もう1つの言い方は、南無阿弥陀仏は常に私を救うために、現在の私に応じて救いの手を差し出しておられるという言い方です。本願が成就した十劫の昔と、現在の私は確かに違います。また、生まれてから今日までもある意味変化を続けています。コメントの中の方も、「毎日3時間ピアノを弾いている」といっても、生まれたときから毎日続けているわけではありません。また、将来ピアノを弾く時間が増えることもあれば、反対にピアノを弾く時間が5分になって仏法に向かう時間が毎日3時間になることもあります。


では、ピアノを弾く時間を増やした後にその人が阿弥陀仏に救われたとした場合、「ピアノを弾く時間を増やしたから救われ」とはいえません。逆に、ピアノを弾く時間を減らした後に救われたとしても「ピアノを弾く時間を減らしたから救われた」ともいえません。


いつ、どのような状態でその人が阿弥陀仏に救われたとしても、南無阿弥陀仏は常に現在の私を救ってくださいます。ピアノを弾く時間が3時間なら、3時間のただ今の私を救って下さいます。5分なら5分の私を救ってくださいます。「自分を変える」というのは、南無阿弥陀仏の救いに時間的な経過を必要とする場合のことで、ただ今救う場合にはいつでも「ただ今の私」です。


いつでも「ただ今の私」を救う為の南無阿弥陀仏ですから、「私が変わらなくちゃ」という手助けは必要ありません。それを法然聖人のお言葉で紹介しますと以下のように言われています。

本願の念仏には、ひとりだちをせさせて助をささぬ也。助さす程の人は極楽の辺地にむまる。すけと申すは、智慧をも助にさし、持戒をもすけにさし、道心をも助にさし、慈悲をもすけにさす也。それに善人は善人ながら念仏し、悪人は悪人ながら念仏して、ただむまれつきてのままにて念仏する人を、念仏にすけささぬとは申すなり。(諸人伝説の詞)

本願の念仏である南無阿弥陀仏は、それ一つで働くように成就しているので、私の智慧や持戒や気持ちなどなどの手助けを必要とはしません。
善人は善人ながら念仏し、悪人は悪人ながら念仏して、生まれついてのままに念仏する人は、念仏に手助けを加えない人だと言われています。

手助けが必要だとあれこれ計らうのを、自力の念仏といわれます。それでは報土往生はできません。手助け無用の南無阿弥陀仏ですから、私はそれを聞いて疑い無いと聞き受けるしかありません。