安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏には差別される心はないと思いますが、私はまだ救われていません。そうなると、何か私に足らないところがあるのでは無いかと考えますが、この考えは間違いでしょうか?(頂いた質問)

阿弥陀仏には差別される心はないと思いますが、私はまだ救われていません。そうなると、何か私に足らないところがあるのでは無いかと考えますが、この考えは間違いでしょうか?(頂いた質問)

前回のエントリーにも関係しているので、前回紹介した画像を再掲します。


http://twitpic.com/bu9aq1

阿弥陀仏の慈悲には差別はないと聞いて、画像左のようなものを想像されているのではないかと思います。確かに、画像左のような平等でしたらいわゆる善人の方が悪人より早く助かるという道理になります。賢者の方が愚者より早く救われるということになります。


私が元いた団体では、阿弥陀仏の慈悲というのは前述したようなものだとほとんどの会員は理解していました。ただ、画像でいうところの背の高さは「宿善の厚薄」という表現で説明されていました。「宿善の厚薄」といっても、その意味はその団体では「過去に行ってきた善根の多少」に限定されていました。


そこで阿弥陀仏の慈悲は「平等(ここでは均等の意味)だから背の低いものは箱を自分で高く積み上げよ」とその団体では推進されていました。そこで背の低い人は、背の高い人よりも努力をして箱を積み上げねばなりません。この箱に相当するのが、「自分の足りないもの」です。一言で言えば善ですが、人によっては「罪悪観」だったり「無常観」だったり、「教えの理解度」だったりします。


しかし、その考えは2つの点で間違っています。

  1. 阿弥陀仏に救われる人は図で言えばある背の高さの人に限られることになる間違い。
  2. 阿弥陀仏のお慈悲を均等にしか考えておらず、そのお働きである念仏を限定的なものにしている間違い。


1については、背の低い人は背の低いままでは助からないことになってしまいます。しかし、阿弥陀仏の本願は背の高い人は高いまま救って下さいますし、背の低い人は低いまま救って下さいます。
2については、阿弥陀仏のお慈悲は念仏となって私に呼びかけて下さいます。その念仏は、私の力を借りねば助けられないような限定的なものではありません。


そのことを仰った法然聖人のお言葉を紹介します。

本願の念仏には、ひとりだちをさせて、すけをさゝぬなり。すけといふは、智慧をもすけにさし、持戒をもすけにさし、道心をもすけにさし、慈悲をもすけにさす也。善人は善人ながら念仏し、悪人は悪人ながら念仏して、たゞむまれつきのまゝにて念仏する人を、念仏にすけさゝぬとはいふなり。さりながら悪をあらため、善人となりて念仏せん人は、仏の御心に叶べし。かなはぬ物ゆへに、とあらんかゝらんと思ひて、決定心おこらぬ人は、往生不定の人なるべし。 (勅修御伝21)

本願の念仏は、それ単独で救ってくださるお働きがあるので、私の方の手助けは必要ないと言うことです。手助けとここでいうのは、智慧であったり、今回のエントリーでいえば、善であったり罪悪観、無常観、求道心などのことを指して言われています。
そういう手助けがいらない本願の念仏ですから、「善人は善人ながら念仏し、悪人は悪人ながら念仏して」とは、図で言えば背の高い人は高いまま、低い人は低いまま念仏するということです。
罪悪観の深い人は深いまま、浅い人は浅いまま念仏すると言うことです。

「たゞむまれつきのまゝにて念仏する人を、念仏にすけさゝぬとはいふなり。」とは、ただ自分に何かを付け加えようとせずにそのままただ念仏する人を、念仏に手出しをしないこといいます。自らの計らいを挟まない念仏といいます。


とはいえ、悪人が心をあらためて善人になって念仏するならそれはまた阿弥陀仏の御心にかなうことです。どの道自分は本願の御心にかなわない者だとあれこれ計らっている人は、信心が定まらないので浄土往生はできませんよと言われています。


自分に何かが欠けているという考えは、本願の念仏を手助けが必要なものだと念仏を疑い、また自分の手元と他人の様子ばかりに目が向いて肝心な南無阿弥陀仏に目が向いていないということです。


自分に欠けているところを足して助ける本願ではありません。南無阿弥陀仏一つの救いです。ただ今救うの本願をただ今聞いて救われて下さい。