安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「申し訳ないんだが、南無阿弥陀仏と称えても何も変わらないし僕には何も感じない。僕みたいにどうやっても救えない人間もいるんじゃないのかな。」(死人さんのコメント)

死人さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

申し訳ないんだが、南無阿弥陀仏と称えても何も変わらないし僕には何も感じない。
僕みたいにどうやっても救えない人間もいるんじゃないのかな。(死人さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130606/1370509272#c1370602811

また、複数の方からもコメントを頂き有り難うございました。


死人さんが、南無阿弥陀仏と称えられたことがまずとても有り難いことと思います。生きている間に、南無阿弥陀仏と称えられるのは本当に有り難いことだからです。それも救いを求めて称えられたことは、また有り難いことです。

「南無阿弥陀仏」は「開けゴマ」とは違います。

そこで、南無阿弥陀仏と称えても何も変わらないと言われたことについて書いていきます。
死人さんは「南無阿弥陀仏と称えたら何か変わる」と思われていると思いますが、少し説明を加えていきます。南無阿弥陀仏は、「南無阿弥陀仏そのものがお働き」なのであって「南無阿弥陀仏と称えることによって何かが新しく引きおこるもの」ではありません。その意味で、南無阿弥陀仏は「開けゴマ」のような呪文とはことなります。


「開けゴマ」ならば、その言葉をいうことにより宝の部屋の扉が開き、そのなかの財宝を手に入れるという手順があります。その呪文(開けゴマ)と手に入れた財宝は別物です。
しかし、南無阿弥陀仏は「開けゴマ」とは違います。南無阿弥陀仏は、先ほどの譬で言えば「財宝そのもの」であって「財宝を手に入れる呪文」ではありません。


「往生の業は念仏を本とす」

そのことを法然聖人は選択本願念仏集のはじめに

南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本(選択本願念仏集)

と言われました。

親鸞聖人は、それを教行信証に引文されて

『選択本願念仏集』(選択集 一一八三)[源空集]にいはく、「南無阿弥陀仏[往生の業は念仏を本とす]」と。 (教行信証行巻_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P185)

http://goo.gl/pXzyT

と書かれています。


南無阿弥陀仏は「往生の業」です。浄土往生するお働きそのものです。南無阿弥陀仏という呪文によって、あらたに別の「往生の業」がはたらくのではありません。


死人さんが称えた南無阿弥陀仏が、そもそも浄土往生の働きそのものなのです。それを、その通りと疑い無く聞き入れたことを信心といいます。「なんじゃそりゃ?」と思われるかも知れませんが、そのように阿弥陀仏が本願を建てられた結果、私が南無阿弥陀仏と称えることができるのです。

称えた結果を期待するのではなく、称えたままを聞き入れる

称えた結果を期待するのは、自力の念仏といってそれでは浄土往生はできません。称えたままが、私の浄土往生のお働きであると疑い無く聞き入れたのを信心と言います。

どうやっても救えない人がいないように設計されたのが阿弥陀仏の本願

死人さんは、救えない人がいると思われているようですが、それは違います。それは私が救われたからとかいうことではなく、阿弥陀仏が「救えない人がいないように」本願を建てられたからです。

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願力無窮にましませば
 罪業深重もおもからず
 仏智無辺にましませば
 散乱放逸もすてられず(正像末和讃_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P606)

http://goo.gl/KCdOk

それだけ願力が限りなく強いのだから、どれだけ死人さんの罪業が深くて重くても、それは阿弥陀仏にとって「重い」ものではありません。
阿弥陀仏の智慧に限りがないから、どれだけ心が散り乱れて悪い心であってもそれを見捨てられることはありません。


死人さんは、自分で自分を見捨てているところだと思います。しかし、自分が見捨てたその自分を、阿弥陀仏は見捨てられません。「罪業深重もおもからず」「散乱放逸もすてられず」です。


死人さんがどう思われても、阿弥陀仏は死人さんにとって「不請の友」。私も友達です。必ず、阿弥陀仏にただ今救われます。