安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

南無阿弥陀仏のお念仏には実の入ったお念仏と実の入ってないお念仏と有るように思われますが・・お書きになって居られます(仏願の生起本末)とは如何な事でしょうか空念仏となれば阿弥陀如来さまに御恩報謝の称名念仏とはどの様に区分けすれば良いのでしょうか。(みじゅくにんさんのコメントより)

みじゅくにんさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

みじゅくにん 2013/04/25 09:51
蓮如聖人の御文章拝読していると往生出来た人が称えるお念仏と往生出来ていない人が称えるお念仏が有って南無阿弥陀仏のお念仏には実の入ったお念仏と実の入ってないお念仏と有るように思われますが・・お書きになって居られます(仏願の生起本末)とは如何な事でしょうか空念仏となれば阿弥陀如来さまに御恩報謝の称名念仏とはどの様に区分けすれば良いのでしょうか。合掌

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130425/1366832428#c1366851079


みじゅくにんさんの言われる御文章の箇所は、以下の場所ではないかと思います。

それ人間に流布してみな人のこころえたるとほりは、なにの分別もなく口にただ称名ばかりをとなへたらば、極楽に往生すべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなき次第なり。他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すとはいふなり。(御文章5帖目11通_御正忌)

http://goo.gl/QnEmf

結論から言いますと、念仏には自力の念仏と他力の念仏と二つにわかれます。その分かれ目は、称える人が南無阿弥陀仏のいわれを聞いて疑い無いか、疑っているかの違いによります。言葉を変えれば、他力の信心をえているか、いないかの違いです。南無阿弥陀仏そのものに違いはありませんが、称えている人の心によって分けて書かれています。


そのことを、上記の御文章では自力の念仏、あるいは空念仏を「なにの分別もなく口にただ称名ばかりをとなへ」ることと言われています。そんな人は、極楽に往生できるように自分で思っていたも「それはおほきにおぼつかなき次第なり」と言われています。
そこで「なにの分別もなく」とはどういうことかというと、阿弥陀仏の本願と本願によって成就した南無阿弥陀仏のいわれを正しく聞きひらいていないことです。
ですから、他力の念仏は、空念仏にたいして何が違うのかといえば、「南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたる」人の念仏のことです。


この「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」が、コメントされた「仏願の生起本末」です。
仏願の生起本末とは,阿弥陀仏が本願を建てられた(仏願)について、それがなぜ起こされたのか(生起)と、その結果どのような本願を建てられてその結果どのように私を救ってくださるのか(本末)ということです。


阿弥陀仏が、私を救うために本願を建てて下さいました。私を、浄土に往生させ仏にするという本願です。そこで、どうやってこの私を浄土に往生させるかについて、南無阿弥陀仏となって私に直接働きかけ喚びかけられることにしました。その結果,現在私が称えている念仏も、私が自分で考えた言葉ではなく、南無阿弥陀仏のとなられた阿弥陀仏が私の口から出てくださるすがたです。


南無阿弥陀仏の念仏はそのようないわれがあって、私の口から出てくださっています。それに疑い無いのが「南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたる」ことであり、信心決定だといわれています。


従いまして、念仏する私の心の違いではありますが、南無阿弥陀仏そのものについてのいわれについての疑心のあるなしで、信心決定(または往生治定)なのか、浄土往生が「それはおほきにおぼつかなき次第なり」に分かれます。私の称え心を詮索して疑い晴れるのではありません。それよりも南無阿弥陀仏のいわれを聞いて疑い無い身になってください。南無阿弥陀仏は、ただ今お前を助けるとの阿弥陀仏の仰せですから、聞いて疑い無い人は必ずただ今助かります。

最後に、御恩報謝の念仏とは、信心決定した上でいわれることですから、上記の御文章には直前に

されば当流には信心のかたをもつて先とせられたるそのゆゑをよくしらずは、いたづらごとなり。いそぎて安心決定して、浄土の往生をねがふべきなり。

ここでも安心決定(信心決定)して、浄土往生を願いなさいと勧めておられます。その上で「如来わが往生を定めたまひし御恩報尽の念仏*1」を称えさせて頂きましょう。


空念仏について、しかばねさんのコメントに書かれてあったので、一部抜粋して掲載します。

しかばね 2013/04/25 17:12
(略)
本願寺の聞法会館で買った本に『シイラの念仏』のお話が載っています。
“シイラ”というのは、実のならぬ稲穂のことです。
だから、シイラの念仏とは“空念仏”のことです。

これは鳥取県の妙好人、源左さんのお話です。
源左さんは、未信の時、「おらあの念仏は、シイラの念仏じゃけー〜」と言って苦しんでいました。
でも、信後は、「念仏にゃシイラはないけっど 人間がシイラだがのう シイラでも称えなんすらや 実がいっでのう」と言っています。
(略)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130425/1366832428#c1366877560

*1:御文章5帖目10通_聖人一流