安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「“堕ちて行く自分”だから、嬉しいです」について(しかばねさんのコメントより)

六字のスガタとは?何ですか? 南無阿弥陀仏のスガタとは?何ですか? 六つの字の心とは何ですか?(西玉子さんのコメントより) - 安心問答(浄土真宗の信心について)のコメント欄より一部抜粋して紹介します。

しかばね 2013/04/24 17:05
とくよしみねさんへ

たびたびすみません。
今日、コメントを書き込んだ後、“堕ちて行く自分”が有難くて、泣けてきました・・・。
やっぱり、私の信心は変でしょうかねぇ?

私は、自分が“お浄土行き”だとは知らされていませんので、たかぼーさんが言っておられるように、何の覚悟もできぬまま、臨終を迎えることになると思います。
堕ちて行く覚悟ができているわけではなくて、堕ちて行くしかないでしょう・・・という感じです。

でも、“お浄土行き”と知らされなくて良かったな、とは思います。
私としては、“阿弥陀様のお慈悲“と“お念仏”を握って、堕ちて行けるなんて最強だと思っているのですが・・・。

どうですか? 言ってることが変だったら、もっと私の信心を叩いて下さい。
とくよしみねさん以外でも、信後の方、どうかよろしくお願い致します!!


たかぼー 2013/04/24 17:58
 自分の信心が正しいか間違っているか、などと詮索してもどうしようもない。

 あるとき、私はハッと気がついた。私を救うとの弥陀如来仰せが真実であるのであれば、それだけでよいではないか、と。
 また、信心が間違っているとしていまさら自分が何かを求め始めるとしても、ろくでもない心しか持ち合わせていない自分が清浄な仏になるようなことはあり得ない、と。

 この身この心のまま弥陀の仰せを頂くしか為すすべはない。ここが私の落ち着き場所である。

 自分の信が正しいのかどうかも分からないのに、人の信心のことなど分かるわけがない。また、知って堕ちようが知らずに堕ちようが私にとってはどちらでもよい。私の行き先を知っている弥陀如来であればよい。


たかぼー 2013/04/24 18:43
追伸 

 南無阿弥陀仏のお救いを確かなものにしようと努めても(お救いを掴みにかかろうとしても)、また、自分の心に沸き起こる感情や知らされることをもって自分の信心が正しいのだと考えたり思い込もうとしても、それは何にもなりません。弥陀が私を救おうとしているのを自分の方から妨害することはない。なすがままに弥陀如来に任せるのが宜しいでしょう。


しかばね 2013/04/24 20:56
たかぼーさんへ

どうも有り難うございます
私としましては、とくよしみねさんに言われたことで、不安になって焦っているわけではないのですけどね。

親鸞会の人で、臨終直前に獲信して、「往生スッキリ、往生ハッキリ。」と言って、亡くなっていかれた方がおられましたけど、
私は、「往生スッキリ、往生ハッキリ。」どころか、後生はますますクライ(わからない)です。

でも、まっいいかな・・・と思っています。
私にできることは何にもないし・・・。
本当に、“南無阿弥陀仏”しかないもんなぁ〜。
まぁ〜、しいて言えば、“堕ちて行く自分”だから、嬉しいです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130422/1366574505#c1366790744

しかばねさんが、「もっと私の信心を叩いて下さい」と言われるのは、ご自分の信心を試しておられるのではないかと思いました。「言われてどうなるものではないけれども、他力の信心なら壊れないはずだから試してみよう」というところでしょうか?


しかし、「人から何を言われても崩れなかったから間違いない信心だ」と主張するのは間違いです。なぜなら、単なる信念(自力の信心)でも一時的には「何を言われても崩れない」ことはあるからです。ただここで、どれだけ長期間崩れないかを論じていても、信心の沙汰とはなりませんので意味がありません。


自分の心の上で、確信として「往生スッキリ、往生ハッキリ」とならないのは、その通りです。あくまでも、阿弥陀仏の本願において私の往生は定めてくださいます。その本願を聞いて疑い無いのが信心です。

そのゆゑは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまふ。(御文章5帖目10通_聖人一流)

http://goo.gl/iXAUZ

私の往生は、「仏のかたより」決めてくださるものです。


しかばねさんの書かれることで一つお訪ねします。

“堕ちて行く自分”だから、嬉しいです。

とありますが、「『“堕ちて行く自分”だから、嬉しいです。』だから大丈夫」と読めないこともないのですが、如何でしょうか?

上記の趣旨で書かれるのであれば、自分の心を見て信心の有無を決定していることになるので間違いです。叩いてくださいということなので書いてみました。