安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「阿弥陀様を怖い方だと思っていました。何か、ちょっとでもしくじると『謗法罪だ! 謗法罪だ!』と言って、罰を与える厳しい方だと思っていました。」(しかばねさんのコメントより)


しかばねさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

しかばね 2013/04/10 08:12
(略)
本当に私は、間違っていました・・・。
親鸞会にいた時も、この口で“南無阿弥陀仏”を称えていたのに、
(阿弥陀様って、本当におられるんだろうか?)と思っていました。
私は、どこか遠い所に阿弥陀様を探していました・・・。

親鸞会にいた時は、阿弥陀様を怖い方だと思っていました。
何か、ちょっとでもしくじると『謗法罪だ! 謗法罪だ!』と言って、罰を与える厳しい方だと思っていました。
でも、違っていました・・・。

何もできない、箸にも棒にも掛からない私の為に、
(苦しいことは辛いことは、全部ワシがかわりにやった、おまえはそのままでいい。)と言ってくださる方でした・・・
かたじけないです・・・申し訳ないです・・・

南無阿弥陀仏・・・南無阿弥陀仏・・・南無阿弥陀仏・・・

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130408/1365412058#c1365549152

しかばねさんのコメントを読んで私も同じことを思っていたことを思い出しました。
阿弥陀仏は「医者」とか「親」とたとえられますが、以前の私はどうしても「教師」「指導者」と考えていました。それは、一言で言えば「言うことを聞かないと救ってくれない仏」という考えです。


阿弥陀仏を親にたとえられても、素直にそうとは思えなかったのは、私自身の親子関係に問題があったのではないかと思っています。ただ、親鸞会では阿弥陀仏と私を親子に例えるような話はほとんどありませんでした。
しかし、一度阿弥陀仏の本願を聞いてみると、阿弥陀仏という方は、親というよりも、私自身なのだと感じることがあります。私自身というのは、阿弥陀仏に対して大変不遜な言い方なので、このように書くのは正直なところ気が引けます。


ただ、ある意味、自分が悩んでいる時に「自分で自分に相談する」ということは何の解決も与えるものではありません。そんななか、自分の中に自分を超える方がおられ、救ってくださるというのが正直な感覚です。自分に相談しても、自分は決して救われません。そんな中、自分の中にすでに深く深く入り込んでおられた南無阿弥陀仏が私を救ってくださるというのですから大変有り難いことです。


南無阿弥陀仏は、口にすれば声なのですが、それこそが阿弥陀仏の本体なのだと法然聖人も言われています。

仏の本願の称名なるがゆへに、声を本体とおぼしめすべきにて候。(往生浄土用心より)

南無阿弥陀仏は、どこか遠くに居られるのではありません。私が、南無阿弥陀仏と称えるときの声が本体なのです。南無阿弥陀仏は、「お前をただ今救う」の呼びかけですから決して私を罰したり、教育して更生させてから救うというものではありません。