前回の記事に続けての質問を頂きました。
2022-03-30のエントリーで、「「救われていない現実」に「納得」しないで、ただ今助ける南無阿弥陀仏を聞いて | Peing -質問箱-
質問箱には、以下のように書きました。
はい。「本当は救われるのはめったにないことなんだけど信じよう」とするのも「疑い」には違いありませんが、「阿弥陀仏は救うとよびかけられているのに、なぜ救われないのか。救われないほうがおかしい」という「疑い」の方が本来の「疑い」だと思います。
これに続けて書きます。
「信じる」「疑い」と言う言葉は、浄土真宗の信心について語るとき出てきます。
ただよくよく考えてみますと、「私は阿弥陀仏の本願を信じてはいるけれども、疑いが晴れません」と言う人の中にも、この「信じる」「疑い」の意味合いに違いがあります。 「信じる」と「疑い」は、対になる関係の言葉なので、「信じる」の意味が変われば、おのずと「疑う」の意味も変わってきます。
「信じる」=「阿弥陀仏の仰せに従う」の場合
浄土真宗では「信心」について、「阿弥陀仏の仰せにしたがう」という言い方をします。それに対して「疑う」は「阿弥陀仏の仰せに従わない(はねつける)」ということになります。
この場合は、阿弥陀仏の仰せは前回の記事の言葉を使うと「十方一切の衆生みなもれず往生すべし」となりますので、それについては間違いないという前提での話となります。
親鸞聖人時代は、この前提で「信じる」「疑う」という言葉を使っている人が多くおられたと思います。
「信じる」=「阿弥陀仏の本願があることは信じる」の場合
次は、「信じる」=「阿弥陀仏の本願があることは信じる」という場合です。
この場合は「疑う」=「阿弥陀仏の本願を完全には信じ切れない」となります。
そうなると「私が阿弥陀仏の本願を信じきれるかどうか」が問題になってきます。それは「自分の心との戦い」となり、仮に「信じきれた」となったとしても、いわゆる「自力の信心」となってしまいます。
これは科学を信じる信じ方と同じで、仮説を証明するために実験が必要となり、実験が成功すれば信ずるに足るというものです。
あくまでも「阿弥陀仏の本願があること」「私を救ってくれる事」は「仮説」であって、いろいろな人が救われたという「実験結果」によって証明されたものとして受け取っています。ただ、「阿弥陀仏が救ってくださる」というこの「仮説と証明」には「この私」が抜けてしまっています。そこに、何とか自分を押し込もうとしているのが、この「信じる」「疑う」です。
「仮説」から「前提」へ
私も以前は、「阿弥陀仏が救ってくださる」というのは「仮説」として受け取っていました。そのため、自分でいろいろと「助からない理由」を使ってはそれに納得していました。なぜなら「阿弥陀仏の救い」がそもそも「仮説」なのですから、「私がただ今助かっていない」ことについてもさほど驚きはありませんでした。
ただ、「阿弥陀仏はただ今助けるとの仰せ」を「前提」としたときには、私のいろいろな「助からない理由」はまったく「理由」にならなくなります。
「阿弥陀仏はただ今助けるとの仰せ」が前提になると「助からない方がおかしい」となります。その「おかしい」が、本来の「疑い」です。
ですから「疑いが晴れません」と悩んでいる人も、単に「信じきれません」といっても、「阿弥陀仏の救いが仮説」である場合は方角違いの悩みということになります。
阿弥陀仏は、念仏するものを必ず救って下さいます。それを「前提」として南無阿弥陀仏の仰せを、ただ今助けると聞いてください。
(82) 十方微塵世界の
念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる
(浄土和讃 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P571)