安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「衆生苦悩我苦悩 衆生安楽我安楽」の出典は真田増丸さんの「信念の叫び」でした(仮名さんのコメントより)

前回のエントリーについて、仮名さん、たかぼーさんからコメントで情報提供をして頂きました。有り難うございました。

たかぼー 2013/04/08 19:39
浄土論の「離菩提障」と「順菩提門」、並びにそれらを解説した論註の該当箇所には、衆生苦悩我苦悩衆生安楽我安楽に近い法義が述べられていますね。そこには法蔵が衆生を摂化するための妙楽勝真心の成就のありさまが述べられています。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130408/1365412058#c1365417549

浄土論には、たかぼーさんのコメントにあるように、似たような記述があります。それは、以下の箇所です。

菩薩かくのごとくよく回向を知りて成就すれば、すなはちよく三種の菩提門相違の法を遠離す。なんらか三種。
一には智慧門によりて自楽を求めず。我心の自身に貪着することを遠離するがゆゑなり。
二には慈悲門によりて一切衆生の苦を抜く。衆生を安んずることなき心を遠離するがゆゑなり。
三には方便門によりて一切衆生を憐愍する心なり。自身を供養し恭敬する心を遠離するがゆゑなり。これを三種の菩提門相違の法を遠離すと名づく。(浄土論・離菩提障より・浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)浄土真宗聖典(註釈版)P39)

http://goo.gl/ldWC0

浄土論は、菩薩がどのような行を行って浄土に往生するかということと、浄土がどのようなところかを書かれたものです。


その中の、離菩提障から今回関係するのは、「二には慈悲門」の部分です。
大体の意味は、「慈悲によってすべての人の苦しみを抜く。人を安らかにすることを第一とするからである。なぜなら、人の安心を願わない心を離れるからである」というものです。
それ以外の、智慧門は「自らの楽を求めない。なぜならば、自分自身に執着する心をはなれているからだ」。方便門については「すべての人を憐れに思うこころである。なぜなら、自らを供養し敬う心を離れているからだ」というものです。


このように、菩薩は智慧と慈悲によって衆生を救おうと常に働かれます。そうでなければ、菩薩とは言われません。自分中心で、人の安楽を願わないようなものは菩薩ではないと書かれています。


そこから、自らが安楽になればいいという考えのない本当の菩薩は、必ず衆生を救おうと回向という働きをされるのだと書かれています。そのことを、浄土論に書かれていますが、親鸞聖人は「如来二種回向文」に引いて紹介されています。

無量寿経優婆提舎願生偈*1』にいはく、「云何回向 不捨一切苦悩衆生 心常作願 回向為首得成就大悲心故」
この本願力の回向をもつて、如来の回向に二種あり。一つには往相の回向、二つには還相の回向なり。(如来二種回向文)


「いかんが回向する。一切苦悩の衆生を捨てずして、心に常に作願すらく、回向首として大悲心を成就することを得たまえるがゆえにと。」と浄土論に書かれています。全ての人を見捨てられず、心に常に人を救う願いをおこされて、そしてその願い通りに自らの功徳を人のさし向け、救うことを第一として大慈悲心を成就されています。
この大慈悲心を成就されたのは、法蔵菩薩であり、その結果仏になられたのは阿弥陀如来です。それを「本願力回向」と親鸞聖人はいわれました。それによって、私を浄土に往生されるはたらきと、浄土から人を救う為にまたこの世に帰ってくる働きがあるのだといわれています。


本当に「この人を助けたい」とか「この人の苦しみが判る」となれば、何かの心身に動くものがあります。それを実際に行動として私をすくう働きをされたのが法蔵菩薩であり、その結果仏になられたのが阿弥陀如来です。


仮名さんからは、「衆生苦悩我苦悩・・・」の出典についてコメントを頂きました。

仮名 2013/04/08 19:44
今は確認出来ませんが、たしか眞田増丸さんの「信念の叫び」に出てくると思います。
しかばねさんは親鸞会会長の書いた「顕正」で「衆生安楽〜の大悲にあきれ」とあるのを読んだのだと想像しますが、会長はおそらく「信念の叫び」の影響で使ったのだと思います。

眞田さんが、どこからこの言葉を使ったのかは分かりませんが、眞田さんが、なもあみだぶつを喜んで思わず格調高く漢文で叫んでみた、ということかもしれませんね。


衆生病むが故に我病む。

http://homepage2.nifty.com/kozuiji/Kakehasi_Syuhou0407.html


自他一如、苦悩の衆生を、そのまま我が苦悩であると引き受けて下さった阿弥陀さまであり、お念仏の声をいつも聞いて下さる親さまでございます。

なもあみだぶつ、、なもあみだぶつ、ありがたいですね。

なんまんだぶつ、なんまんだぶつ、、
なんまんだぶ、なまんだぶ、なむあみだぶ、なあまんだぶ、、、、

なんまんだぶ、、「我にまかせよ」と仰る。すでに衆生の苦悩を知り尽くして下さったことに感激するばかりです。
なんまんだぶ、と称えることは、まことに仏と水いらずのことでした。

なんまんだぶ、、、


仮名 2013/04/09 07:46

確認しました。
眞田増丸師、信念の叫び73ページ。

華厳経に、世の善はすべて如来さまの御心から生じる、と仰せられているそのお言葉をほそぼそながら味わわせていただけるようになってくる。
「如来一切のために、慈父母となりたまう。まさに知るべし。諸々の衆生は皆これ如来の子なり。世尊の大慈悲、衆生の為に苦行を行したまうこと、人の鬼魅につかれて狂乱の所為多きが如し」
実に如来は私どもの大慈大悲の御親である。
「仏心とは大慈悲これなり。無縁の慈をもって諸々の衆生を摂化したまう」

まことに如来は大慈悲をもって私どもをはぐみたまうのである。

衆生の苦悩は我が苦悩なり。
衆生の安楽は我が安楽なり。

如来は私どもの苦悩のありだけを、御自身に引き受けて、私どもにかわって苦労したまい、私どもの安楽をもって御自身の安楽としたまうのである。

如来のお慈悲は絶対である。無限である。平等である。無碍である。
如来のお慈悲は無碍であるから善人悪人の区別なく「邪なる人と聖なる人の区別なく」救いたまうのである。

云々。とありました。

漢文にしたのは顕徹さんのようですね。

15年くらい前の親鸞会機関紙の顕真
に、眞田師の言葉が多く紹介されたことがありました。
それも、会長の巻頭言の元となったものばかりです。今なら、この記事を書いたものは誰だ!となりそうでしたが、その頃はおおらかなものでした。

なもあみだぶつ、なもあみだぶつ、

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130408/1365412058#c1365417844

衆生の苦しみを我が苦しみとされるということについて、内容としてはお聖教にいろいろな箇所で書かれていますが、そのままの表現は見当たりませんでした。仮名さん教えていただき有り難うございました。

*1:浄土論