安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

お聴聞していると、「おはたらきをさせていただく」という言葉が当たり前に出てくるので、おはたらきのもつ意味を吟味してみたかったのです。(匿名希望さんのコメントより)

匿名希望 2013/04/15 19:41
ありがとうございます。
確かに法を伝えるということがわからないのかもしれません。
お聴聞していると、「おはたらきをさせていただく」という言葉が当たり前に出てくるので、おはたらきのもつ意味を吟味してみたかったのです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130415/1366016819#c1366022498

「おはたらきをさせていただく」は、お寺などで使われる一種の慣用表現と思います。真宗以外の場では、私も聞いたことがありませんでした。
「おはたらき」の主語は阿弥陀如来です。「させていただく」の主語は私です。

阿弥陀仏の仕事を、私が代理でさせてもらうという意味合いで使われている言葉なのだと私は受け取っています。そうなりますと、その「おはたらきをさせていただく」のは、現在阿弥陀仏に救われた私ということになります。往相廻向も還相回向も、「おはたらき」としては、阿弥陀仏から頂くものです。なぜなら、南無阿弥陀仏に、「往相回向」「還相回向」の二つは収まっているからです。


匿名希望さんが、どのような方かは私はよく判っていませんが、「自信教人信」といわれるように、自らが信を得て、人に教えて信ぜしむるのが、浄土真宗では伝える人の基本的立場です。


そこで、「現在の私が法を伝える」という点について考えますと、その相手は各人によって縁のある人は異なります。
「寺の住職」ならば、その寺の門信徒の方が多くなるでしょうし、「一門信徒」ならば、家族や、友人・知人、同じ寺の門信徒ということになるかと思います。


さて、「おはたらきのもつ意味」について書いてみます。
確かに、衆生済度あるいは、人々を救う活動は阿弥陀仏または南無阿弥陀仏の独り働きに違いありません。しかし、「力」の出所はさておき、「私の気持ち」の置き場所が定まりません。
「衆生済度は阿弥陀さまのお働き」「私はその媒介にすぎない」と割り切れるようなものならば、本願力回向とはいわれません。阿弥陀さまのお働きは、私にさし向けられるといってもただの踏み台になるだけではありません。実際に「法を聞いてもらいたい」という気持ちにさせられるものです。

確かに、その気持ち自身の阿弥陀仏によっておこされるものですが、起こされた側からいえばやはり「法を聞いてもらいたい」と思っているのも事実です。その「法を聞いてもらいたい」という気持ちに従い、自分の持ち場でいろいろと悩みながら有縁の方に法を伝えていく努力が、如来よりお働きを頂いた結果だと思います。

まづ有縁を度すべきなり(歎異抄第5条)

とあるのは、浄土へ行き仏になってからことを言われたものですが、自分のいる持ち場でできるこをしていこうと努力することが、菩薩行ではなくても報恩行と思います。