安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

『無分別智』と『衆生苦悩 我苦悩 衆生安楽 我安楽』は、お経の中にあるお言葉なのでしょうか?(しかばねさんのコメント)

しかばねさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

しかばね 2013/04/08 16:52
私は、阿弥陀様が、ずっと前から私のところに来て下さっていたことに気が付きました。
そして、以前ご説法で聞いた『無分別智』のお話を思い出しました。

この『無分別智』と『衆生苦悩 我苦悩 衆生安楽 我安楽』は、お経の中にあるお言葉なのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130403/1364986699#c1365407528


お尋ねの言葉についてですが、大正新脩大蔵経テキストデータベースで検索をしてみると、「無分別智」はたくさん出てきます。しかし、「衆生苦悩 我苦悩 衆生安楽 我安楽」は、大正新脩大蔵経にはありません。
Googleで検索しても,出てくるのはほとんど親鸞会関係者のブログばかりです。経典に直接はないのですが、こういう言い方そのものはあります。阿弥陀仏の慈悲の心を伺えば,私の苦しみを阿弥陀仏ご自身の苦しみとし、私の安楽を、阿弥陀仏の安楽とされるということです。


それは、観無量寿経に「仏心とは大慈悲これなり」といわれたとおりです。仏の心とは、大慈悲そのものです。慈悲という言葉は、語源をたどると「慈」はマイトリーといい、本来は友情の意味があります。私に対して、親しき友達として接して下さるということです。



「雨天の友」という諺もありますが、苦しい時に本当に親身になってともに苦しむのが本当の友情といわれます。そして一緒に乗り越えようとするで、「慈」は抜苦の意味でいわれます。


次に「悲」は、カルナといい元々は痛み、悲しみという意味です。人が苦しんでいる時には,自分の苦しみや痛みを通して人の苦しみを感じ、その苦しみを癒そうとせずにおれない心になります。これが、何とか助けようという救済の心となるので「悲」は与楽といわれます。

自分と他人とを区別せず(無分別智)をもって、すべてのものの苦しみを我が苦しみと感じて、ともにその苦しみを抜いて楽を与えようと活動されるのが阿弥陀仏です。


「衆生苦悩 我苦悩 衆生安楽 我安楽」は、経典にはありませんが誰の書かれたものに直接出てくる言葉なのかは、私は知りません。ご存知の方があれば教えていただきたいと思います。