ただ今助かろうという心は、もとより私は持ち合わせていないので、私の心に何かを期待しても出てくるものは煩悩しか有りません
そのため他力信心を、教行信証信巻に出てくる阿闍世の救済場面で「無根の信」と言われています。
世尊、われ世間を見るに、伊蘭子より伊蘭樹を生ず。伊蘭より栴檀樹を生ずるをば見ず。われいまはじめて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る。
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伊蘭子はわが身これなり。栴檀樹はすなはちこれわが心、無根の信なり。
無根とは、われはじめて如来を恭敬せんことを知らず、法僧を信ぜず、これを無根と名づく。(教行信証信巻より)
お釈迦さま、私(阿闍世)はこの世の中を見ても伊蘭(非常に臭い臭いを放つ木)のタネから伊蘭の木が生えます。その伊蘭から栴檀(非常によい香りの木・香木)の木が生えるのを見たことが有りません。私ははじめて伊蘭のタネから栴檀の木が生えるのを見ました。
伊蘭のタネとは私自身の事でした。栴檀の木とは私の心、無根の信です。
無根とは、私は如来を恭敬することもしらず、その教えも伝える僧も信じておりませんでした。これを無根といいます。
安楽集には
いふところの「伊蘭林」とは、衆生の身のうちの三毒・三障、無辺の重罪に喩ふ。 「栴檀」といふは、衆生の念仏の心に喩ふ。(安楽集)
http://goo.gl/kmcvL
といわれています。伊蘭林とは煩悩のことです。栴檀は念仏の心に喩えられたものです。
私には真実信心のタネになるようなものも、根っこになるようなものもありません。すべて阿弥陀如来から回向された信心ですから無根の信といわれます。
煩悩しかない私に、なんとか浄土往生してもらいたいと願いをたれられ南無阿弥陀仏と呼びかけてくださるのが、阿弥陀仏です。
如来一切のために、つねに慈父母となりたまへり。
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まさに知るべし、もろもろの衆生は、みなこれ如来の子なり。(教行信証信巻より)
如来はつねに父となり母となって下さり私を救おうとされています。だから、私は如来の子です。
親の心子知らずともいいますが、いつまでも知らないでは親不孝といわざるをえません。
ただ今救うのといわれる阿弥陀如来の本願を、ただ今聞いて下さい。