※修正しました。
Ondさんよりコメントを頂きました有り難うございました。
親鸞会で次のように言ってましたが、その誤りをただしてください。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20101009/1286616104#c1286711772
「臨終の苦しみを平生に出し火柱かかえたつもりで泣き泣き求めてゆくのです。必ず生きた弥陀と対面出来る。」(Ondさんのコメント1)
この問いについて、maryさん、Rudelさん、きらきらさんからコメントを頂きました有り難うございました。(コメントはそれぞれリンク先参照)
この言葉は、私も親鸞会にいたころよく聞きました。
私は当時「とにかく今日が臨終と思って求めて行かねば、救われない」「今が後生と思うことができれば救われる」と解釈していました。
「臨終の苦しみを平生に出し」と「火柱かかえたつもりで泣き泣き求めてゆくのです」が、一体どういう意味かについては人によっていろいろと解釈が異なると思います。
しかし、構造をみると「○○するのです」「××できる」と文章が続けば、普通は、「○○をするのです。そうすれば××できる」となります。ただし、本文には、前後の文章を結ぶ言葉がありません。
一応ここでは、「○○するのです。そうすれば××できる」という文章だとしますと、「○○するのです。そうすれば阿弥陀仏に救われる」となります。言い換えると、「○○すれば阿弥陀仏に救われる」という文章です。
ここで、○○部分に「「臨終の苦しみを平生に出し」と「火柱かかえたつもりで泣き泣き求めてゆく」が入ります。
いずれも、「私の考え、行動」を指している言葉なので、「私が○○すれば阿弥陀仏に救われる」となりますので、間違いです。
「臨終の苦しみを平生に出し」たら救われるのでもなければ、「火柱かかえたつもりで泣き泣き求めてゆ」けば救われるでもありません。
阿弥陀仏が本願を建てられたのは、苦しみ悩む衆生を見捨てられない大慈悲心からです。
如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまひて 大悲心をば成就せり(正像末和讃38・註釈版聖典P606)
苦悩の有情を見捨てられずに、私に差し向けることを第一として本願を建てられたのが、阿弥陀仏です。
そんな阿弥陀仏が、私に対して「臨終の苦しみを平生に出せ」とか「火柱抱えたつもりで泣き泣き求めよ」といわれる道理はありません。私に要求されるものは何もありません。阿弥陀仏の本願は「そのまま救う」です。
苦しみ悩む私に対して、阿弥陀仏からの回向を第一とされた本願を、私から阿弥陀仏へ回向することが第一と言って本願を曲げているので、間違いです。
阿弥陀仏の本願を、阿弥陀仏から疑いなく聞いて救われるのですから、私の方から「臨終の苦しみを平生に出し」「火柱抱えたつもりで泣き泣き求め」ることを阿弥陀仏に差し向けて救われようと言うのは方向違いです。
Ondさんのコメント2に書かれた
私は、「せっかく南無阿弥陀仏の尊さを曲がりなりにも知らされながら、怠惰に過ごして死んでいくのはもったいないですよ。まじめに弥陀を念ずれば必ず疑い晴れるときがあります。」、このように味わっていました。(Ondさんのコメント2)
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20101009/1286616104#c1286774991
については、別のエントリーで改めて書きます。
追記
当エントリーは2010-10-12 10:50に修正しました。