安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏の本願は誰でも救う本願と聞きますが、それでも自分は漏れてしまうのではないかと思います。(頂いた質問)

阿弥陀仏の本願は誰でも救う本願と聞きますが、それでも自分は漏れてしまうのではないかと思います。(頂いた質問)

阿弥陀仏の本願は、私というものを御覧になって慈悲心を起こされたところから始まります。

仏本この荘厳清浄功徳を起したまへる所以は、三界を見そなはすに、これ虚偽の相、これ輪転の相、これ無窮の相にして、蚇蠖[屈まり伸ぶる虫なり]の循環するがごとく、蚕繭[蚕衣なり]の自縛するがごとし。あはれなるかな衆生、この三界に締[結びて解けず]られて、顛倒・不浄なり。衆生を不虚偽の処、不輪転の処、不無窮の処に置きて、畢竟安楽の大清浄処を得しめんと欲しめす。(浄土論註)

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仏様の目から御覧になると、私という存在は「虚偽の相、これ輪転の相、これ無窮の相」です。これは、嘘偽りの相であり、車の輪がわわるように果てしなく迷いを重ねる相です。それはまるで「蚇蠖の循環するがごとく、蚕繭の自縛するがごとし。」と言われています。まるで、尺取り虫が同じところをぐるぐるまわるようなものであり、蚕が自分の口から吐いた糸で自分を縛って逃げられなくなるようなものです。


そういう私に対して「不虚偽の処、不輪転の処、不無窮の処」に生まれさせたいと思われたのが阿弥陀仏です。ですから阿弥陀仏の御慈悲は、私という存在の上に成り立っているものです。丁度、親の慈悲は子供という存在を通して発動するようなものです。その子供に対する親の慈悲は、子という存在の上にしか現れません。譬えて言えば、植木鉢に植えた朝顔の種は、その植木鉢の上にしか芽を出し華を咲かせることがないのと同じです。


「十方衆生といっても自分は漏れているのでは」と思われるのは間違いです。仏の慈悲は、その対象があってこそ働くものです。その慈悲の相手は、まさにこの私です。この私なくしては、仏の慈悲も本願もありません。したがって、自分が阿弥陀仏の御慈悲から漏れるということはありえないことです。ただ今助ける本願の仰せは、私一人のものと聞いてください。