安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

後生くらい心を「後生を不安に思う心」と理解するならば、それは阿弥陀仏に本願を聞くことで無くなると言ってもいいように思います。山も山さんはどのように思われますか?(maryさんのコメントより)

maryさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

mary 2013/04/02 21:28
後生暗い心(死ねばどうなるか判らない心)について質問させて下さい。
私自身は「死後どうなるかわからない不安」が自分にとっての大問題であったことから、「死の解決ができる、後生がハッキリする」との言葉に惹かれ、長々と親鸞会と御縁を持つことになりました。
今は、「死後どうなるかは分からない」のは変わらないけれど、「死後を知る知恵を持ち合わせていない自分」に、阿弥陀様が「必ず浄土へ連れてゆくぞ」と呼んでくださっているので、「死んだらどうなるか・・と考えた時に出てきていた底知れない不安」は無くなりました。
そういう意味で、「後生ははっきりしないままであっても、後生の不安は無くなった」といえます。後生くらい心を「後生を不安に思う心」と理解するならば、それは阿弥陀仏に本願を聞くことで無くなると言ってもいいように思います。
山も山さんはどのように思われますか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130318/1363597892#c1364905716


まず「後生くらい心」という単語が、親鸞会で独特につかわれている場合にはいろいろと解釈可能なので、語義を決めないとなんともいえません。また「後生暗い心」という単語は、浄土真宗辞典にも載っていないので、日本語として普通に解釈する必要があります。

そこで辞書を引くと、以下のように書いてありました。

くらい【暗い】
(形)《文 ク くらし》
〔動詞「暮る」と同源〕
(略)
(6)事情をよく知らない。精通していない。「法律に―い」「この辺の地理に―い」
(略)(スーパー大辞林より)

そこで、「後生暗い心」とは「後生をよく知らない心」「後生に精通していない」と解釈するのが妥当です。


そこで、阿弥陀仏に救われたらなくなるのは何かといえば、「後生くらい心(後生をよく知らないこと)」によって、結果として引き起こされていた「後生の不安」です。後生暗い心(後生をよく知らない心)は、智慧がない凡夫である以上は、無くなっていません。なぜなら、「浄土」がハッキリ判る智慧があるから、「後生の不安」がなくなるのではないからです。


確かなものは、「南無阿弥陀仏」と「お前を浄土に必ず生まれさせる」の仰せだけであって、私が「自身の後生」を自らの智慧をもって知ることができたわけではないからです。


「後生の不安」が無くなったからといっても、それは全く阿弥陀仏の仰せのお陰であって、私が「後生を知る智慧があるほど、後生に明るくなった」からではありません。


まとめますと、日本語の意味として、「後生暗い心=後生をよく知らない・精通しない心」であって、「後生不安な心」と定義するのは無理があります。もちろん、「後生をよく知らない→後生が不安」というのは、因果関係としてはなりたちますが、イコールにはなりません。イコールでないものを、イコールとして話を展開するのは、親鸞会のよくやる話の仕方です。


阿弥陀仏に救われるとはどういうことか、あるいは、阿弥陀仏に救われるとどうなるかということはとても大事なことなので、言葉の定義を一つ一つきちんとしていく必要があります。言葉の定義を、親鸞会の側にわざわざ合わせて理解する必要はありません。言葉の定義は、第一にお聖教であり、お聖教にない言葉は日本語の辞書によるべきです。お聖教にもない言葉であり、日本語の辞書にもない言い方で説明をしている言葉がもしあれば、それはその団体独特の言葉です。しかもそれが、日本語としてよく使われる単語で作られている場合は、聞いている人をある方向に誤解させようという意図があってのことですから、気をつけなければなりません。

消火器のセールスマンが「消防署の方から来ました」と言っているのに似ています。