安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

一念覚知の異安心について(水さんのコメントより)

一念覚知について水さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

2013/02/27 20:58
済みません、質問させて下さい。
一念覚知の異安心について、どういうものか教えて頂けないでしょうか。

林遊@なんまんだぶ 2013/02/27 23:59
水さん
昔、あんたは何月何日何時何分に信心決定したか? と、言いがかりを付けて法座を荒らしまわっていた団体がありました。無知は怖いですね(笑

一念覚知の異義は、以下の論文を読まれたらいかがでしょう。

一念覚知の問題
http://goo.gl/RPNLL


一念覚知の異義
http://goo.gl/Sxd4t

時刻をさして一念帰命
http://goo.gl/0cEyo

一念覚知については、林遊さんのコメントにあるリンク先から一部紹介します。

入信の時の記憶をもって信の証拠とする一念覚知の異義

http://goo.gl/rKfxg

です。
具体的に言えば、さらに何月何日何時に助かったという記憶がないものは、それは救われたとはいわない、信心決定したとは言わないという人たちです。


ではどうしてこのようなこと言うようになったのかといえば、一念覚知の異安心にも主張する根拠があります。

それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。(教行信証信巻(末)_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P250)

http://goo.gl/ShCYa


このご文の意味は、信楽には一念がある、一念とは信心がおきる最初の時のことであるというものです。ここで「時剋の極促」とあることをもってきて、「信心=あっというまもない短い時間に起きる何か」と一念覚知の人は考えたわけです。
しかし、信心には最初の時があるということと、時剋があるのだからその時が自覚できるかとはまた話が別物です。


なぜなら、信心決定しているという自覚があるということ、その「最初の時の記憶がある」ということはまた別物だからです。それは信心そのもの内容については、心相の一念として

一念といふは、信心二心なきがゆへに一念といふ(教行信証信巻)

とあります。


信心二心ないとは、無疑心のことです。本願を聞いて疑い無いことを、信心であるといわれています。それは、現在ただ今のことであり、「あのとき」「あの瞬間」や「そのときの記憶」で語るものではありません。


では、信心二心ないとはいつからなのか?その時の年月日時の記憶はないのか?と問われれば、「気がついた時はそうなっていた」とでも表現するのが正しいです。しかし「気がついた時」が、信心がひらけ起こった本当のその最初の時かといわれればそれは異なります。またそれは、最初の時間のことであって、その記憶の有無で信心を語ることは意味がありません。


現在ただ今本願を聞いて疑心ないかどうかが、信心そのものの定義だからです。したがいまして、「獲信の日時の記憶の有無」で信心かそうでないかを判定しようとするのは間違いです。