安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏に救われたら喜ばずにおれないものだと思います。一念で大慶喜が起きなければ救われたとは言えないのでしょうか?(頂いた質問)

阿弥陀仏に救われたら喜ばずにおれないものだと思います。一念で大慶喜が起きなければ救われたとは言えないのでしょうか?(頂いた質問)

阿弥陀仏に救われたならば喜びの心は起きますが、天に踊り地に踊る喜びがどんな人にも救われた一念に起きるという考えは間違いです。

本願成就文には「聞其名号信心歓喜」とあります。この「歓喜」について、教行信証信巻では以下のように書かれています。

「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。(教行信証信巻末・浄土真宗聖典(註釈版)P251)

http://goo.gl/IATAh

また、一念多念証文には

「歓喜」といふは、「歓」は身をよろこばしむるなり、「喜」はこころによろこばしむるなり(一念多念証文・浄土真宗聖典(註釈版)P678)

http://goo.gl/vf6lf

と言われています。ここでは、歓を身、喜を心に分けておられますが、教行信証では両方にかけて「身心の悦予」と言われています。

「悦」は、教行信証信巻の三心字訓釈にで信楽の「楽」の説明で、

楽とはすなはちこれ欲なり、願なり、愛なり、悦なり、歓なり、喜なり、賀なり、慶なり。

と出ています。この「悦」は、漢字源によると「心のしこりがとれてうれしくなる」の意味とああります。
このことを、行巻の帰命の解釈の部分で「帰説(悦)【きえつ】なり*1」と言われています。ここで「帰説(悦)」は、「よりたのむなり」と左訓されています。

よって「悦」とは、よりたのむことであり本願力にうちまかせた相ということになります。

次の「悦予」の「予」は、あずかるとか与えるの意味です。行巻の六字釈で言うと「帰説(税)【きさい】なり」と同じ意味になります。安心して休める家を与えられたという意味になり、左訓にも「よりかかるなり」と書かれています。

悦予はどちらも本願力によりかかり、うちまかせた心を言われています。
そうなると、「歓喜」といわれるのは本願力にうちまかせた心であり相のことになります。それが心や体にあらわれてくることを「身心の悦予」と言われています。

聞即信の一念に本願力に打ちまかせたのが信心ですが、それが後に心や体に現れてくることを歓喜と言われています。ですから、一念=歓喜ではなく、一念→歓喜が正しいのです。
一念の信心という信心は、本願を聞いて疑いないことをいうのですから、その後喜びが心に浮かんだといえば、それは信後相続の話になります。

また「「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。」といわれているように、「形す」とは形容詞であるということです。

これは、一念多念証文に「歓喜踊躍乃至一念」を解説された箇所で

「踊」は天にをどるといふ、「躍」は地にをどるといふ、よろこぶこころのきはまりなきかたちなり、慶楽するありさまをあらはすなり。(一念多念証文・浄土真宗聖典(註釈版)P684)

http://goo.gl/pXchM

と言われているところと同じことです。
踊躍は「天に踊る地に踊る」とあるからといって、南無阿弥陀仏を疑いなく聞いた一念に踊りだすのではありません。もし、そんなことがあったらそれは一念とは言えません。その「踊躍」を「よろこぶこころのきはまりなきかたちなり」と言われています。ここに「かたちなり」とありますから、形容詞ということです。仮に実際に踊るのであるなら、踊らない人は救われていないことになります。

本願力にまかせた状態の安心は、これ以上のものはほかにないということの形容詞として、教行信証では「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。」と言われています。

歓喜とあるから喜ぶのだろう、天に踊り地に踊るというからとんでもない喜びがわきおこるのだろうと思うのは間違いです。喜びがおきるとしても、それは救われた一念の後のことであり、また、「歓喜」とあるのは本願力にまかせた心であって、実際に天に踊り地に踊ることをいわれたものではありません。

*1:しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、[至なり、]また帰説(きえつ)なり、説の字は、[悦の音なり。]また帰説(きさい)なり、説の字は、[税の音なり。悦税二つの音は告なり、述なり、人の意を宣述するなり。](教行信証行巻・浄土真宗聖典(註釈版)P171)。