安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

聞法と宿善について(仮名さんのコメントより)

仮名 2013/02/25 18:29
お世話さまです。

http://kazoku.sub.jp/hongwanji/cont/file05.htm

というサイトを見ると

「聞法(聴聞)を勧めることが間違いである等とは、私はどこにもいっていない」
「聴聞については『聞其名号信心歓喜』の法であるから、已信・未信を問わず、みずから聞法につとめると共に、他の人たちにも聞法を勧めねばならないことはいうまでもない」
「しかし、今生において聴聞に励むことは、どれほど懸命に努め励んでも、それはあくまで、救いの法をお聞かせいただくのであってこれを自力の善根を修するとか、宿善を積むなどとはいわないのである」

との本願寺の回答に、

?聞法は獲信の因縁(宿善)とはならない?
ということならば、すでに、
「救いの法をお聞かせいただく聞法」
が獲信の因縁(宿善)になると、ちゃんと認めていることと、矛盾するからである。

 なんのことはない。
聞法は獲信の因縁(宿善)とハッキリ認めては、親鸞会攻撃の足場がなくなる。
 なんとかボカすための弁明と、カングルほかない。
それとも?言わないだけ?とでも、いうのであろうか。

 いずれにしても聞法は、正真正銘、宿善の物体だから、本願寺でも否定のしようがないのだ。


とあります。

少しご意見を聞かせて下さい。

「救いの法をお聞かせいただくのであってこれを自力の善根を修するとか、宿善を積むなどとはいわない」
のは、ボカすための弁明なのでしょうか。
「救いの法をお聞かせいただくのであってこれを自力の善根を修するとか、宿善を積むなどとはいわない」
とはどういう浄土真宗の教義では正しいのでしょうか、間違っているのでしょうか。


聞法は獲信の因縁(宿善)だからしろ、という親鸞聖人の教えはあるのでしょうか。
また、「聞法即宿善」と言ったとき聞と信との関係はどうなりますか。

また、宿善と聞法の関係について、思うところあれば聞かせて頂けないでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130223/1361566535#c1361784566

これについては、林遊さんがコメントされているので、そのコメントも掲載します。

林遊@なんまんだぶ 2013/02/25 23:01
真宗教義の研究 - 本願力
親鸞聖人の著書中には宿善という語はないのじゃないかな?
その、ない語をもって親鸞聖人の思想を論ずるなら、兎の角は赤いのか黒いのかの、兎角の議論にしかなりえないと思いますよ。
リンク先の「教義の研究」中の紅楳師の論文にもあるように、

私は「私の意見に対する反論であるなら、独断によらず、宗祖聖人や蓮如上人の上にみられる文証をはっきり示して反論されるように」といっていたのであるが、私が再三もとめたところの、「破邪顕正や財施を獲信のための宿善として修せよ」とある文証は、未だに何等示されていない。
私が問題にしたのは、このことなのであり、高森親鸞会が自説の根拠となる文証を明示されない限り、私への反論になっていると認めることはできないのである。

と、されています。
しこうして、高森顕徹氏は、善のすすめの根拠として「七仏通誡偈」を出し、

か くて、大上段に?修善をすすめた文証など、あろうはずがない?と、アッと驚く、タメゴローならぬ、外道よりも、あさましい放言をなさるのである。【本願寺なぜこたえぬ p138】
仏教で『七仏通戒偈』は、有名である。 すべての、仏教に共通した教えを、一言で喝破しているからだ。 「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」 ?もろもろの、悪をなすことなかれ、もろもろの、善をなして、心を浄くせよ、これが、諸仏の教えだ?というのである。 本願寺サン、『七仏通戒偈』も、お忘れになったのか、と驚かされる。【本願寺なぜこたえぬ p138】

と、下卑た筆勢で勝ち誇っていましたが、この一文で高森顕徹氏は全く浄土門という宗義を理解していないことを満天下に曝したのでした。爾来、本願寺派ではアホらしくて相手にしなかったのですが、それをもって本願寺派との法論に勝利したと内部向けに喧伝してきたのでしょう。
因を修して果へ向かうという「自業自得の救済論」ではなく、阿弥陀如来の「大悲の必然としての救済論」によって善悪平等の救いを説くのが浄土教です。「七仏通誡偈」を出す高森顕徹氏の理解する教義と、教えの綱格がそもそも違うのですね。
ちなみに、この「七仏通誡偈」を根拠として聖道仏教は、浄土教を弾圧してきたのでした。『興福寺奏状』や『延暦寺奏状』をみれば明らかです。


ネット上には親鸞聖人の主著である『教行証文類』が、漢文でも読み下し文でも現代語でもUPされていますから、人のものを問うなら、せめて浄土教の綱格を理解した上での議論であれば応じてくれる人もいるかもです。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130223/1361566535#c1361800863

宿善という言葉は、親鸞聖人の著作に使われていない言葉です。そのため、宿善という言葉で真宗教義を語るというのはそもそも論として難しいところがあります。

それを踏まえた上で、エントリーを書きます。

「救いの法をお聞かせいただくのであってこれを自力の善根を修するとか、宿善を積むなどとはいわない」
のは、ボカすための弁明なのでしょうか。(仮名さんのコメントより)

これはボカすための弁明ではありません。
浄土真宗で聴聞といえば、阿弥陀仏の本願を聞くことをいいます。救いの法を聞くということは、救いの法そのものが私を救ってくださるのですから、これが自力の善根になるということはありません。

「救いの法をお聞かせいただくのであってこれを自力の善根を修するとか、宿善を積むなどとはいわない」
とはどういう浄土真宗の教義では正しいのでしょうか、間違っているのでしょうか。

聞いたままが信心であるという、いわゆる聞即信から正しいことです。
聞いたことと、信心が別ものと考えるのは間違いです。

聞法は獲信の因縁(宿善)だからしろ、という親鸞聖人の教えはあるのでしょうか。
また、「聞法即宿善」と言ったとき聞と信との関係はどうなりますか。

そのような親鸞聖人の教えはありません。
そこで、聞法即宿善という言葉もありません。また、仮にそういった場合は、聞と信の関係が、別のものとなってしまいます。聞くという行為の結果が宿善となり、その宿善が信心となるという説となるのでは間違いです。

また、宿善と聞法の関係について、思うところあれば聞かせて頂けないでしょうか。

リンク先のサイトにかかれてあるような、「宿善がなければ救われない、聞法即宿善」と言っているのは間違いです。宿善を「宿世の善根」という意味で使っている場合は、聞法とは関係がありません。

ただ、聞法の縁にあうかあわないかは阿弥陀仏の願力のお働きによるものですから、遠く宿縁を慶べと親鸞聖人は教えられました。