安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「阿弥陀仏から逃げる心しかありません。この心がある間は、信心決定できないのでしょうか?」(しかばねさんのコメント)

しかばねさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

しかばね 2013/03/01 16:58
私には、阿弥陀仏から逃げる心しかありません。
この心がある間は、信心決定できないのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130228/1362053084#c1362124739

阿弥陀仏から逃げる心は、私も持っています。その心をなくそうとしても、なかなか無くなるものではありません。しかばねさんが、その心をなんとかしない間は救われないと思われているでしたら、それは間違いです。さらにいえば、それは「救われていない自分」をなんとか合理化というか正当化しようとしているだけです。
言葉を変えれば「こんな心があるのだから救われていなくても仕方がない」と言っているのと同じです。


阿弥陀仏の本願は、そういう逃げる心のあるものを救うからこそ「阿弥陀仏」といわれます。

(82)
十方微塵世界の
 念仏の衆生をみそなはし
 摂取してすてざれば
 阿弥陀となづけたてまつる(浄土和讃・浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P571)

この摂取不捨について、親鸞聖人は左訓されています。

【左訓】「摂めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり。摂はをさめとる、取は迎へとる」(異本)

「ものの逃ぐるを追はへ取る」とは、逃げるものは追いかけて救ってくださるということです。しかも、一度すくい取ったならば、永久に見捨てられることがないというのが阿弥陀仏です。



どれだけしかばねさんが逃げても、阿弥陀仏は関係なく私を救ってくださいます。ただ今救うと呼びかけるのは、逃げているものだからです。だからこそ強い呼びかけとなるのです。ただ今救う本願を聞いてただ今救われてください。