安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「南無阿弥陀仏と称名し浄土に生まれたいと思いをかけることで誰でも救われるという法」)(こんにちわさんのコメント)について追記

こんにちわさんのコメント内容について追記します。
(再掲)

こんにちわ 2013/02/04 13:57
その本願のいわれを聞くというのはいままで何度も何度も聞いてますが、昔法蔵菩薩が世自在王仏について修行をしていたとき衆生を憐れんで大菩薩心を起こし二百一十億の仏国土を見せてもらい五劫の間それらの国土の長短を峻別して最も優れた国土を建立しようと思惟して四十八願を建てられて世自在王仏(※コメント訂正があったので文章を変えました)に誓い兆歳永劫の間修行して遂に仏の悟りを開き阿弥陀仏となって同時に四十八願の誓願が現実のものとなり南無阿弥陀仏と称名し浄土に生まれたいと思いをかけることで誰でも救われるという法が完成しているということでいいんでしょうか?
何度も聞いて知って信じてるわけですがなにも獲信の気配すらありません。他に何か不足があるんでしょうか?
ある特別な心相にでもならなければならないのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130202/1359749637#c1359953879


こんにちわさんのコメント内容について間違ったことは言っていないと以前のエントリーで書きました。しかし、このコメントの文面はその人の読み方次第では間違いになります。その点について追記します。


その点とはコメントの以下の部分です。

南無阿弥陀仏と称名し浄土に生まれたいと思いをかけることで誰でも救われるという法

特に「思いをかけることで誰でも救われる」という部分は、「私が」その思いを起こしたから救われるというようになりますと、これは「願生帰命」という間違いになります。「願生帰命」とは、私の方から阿弥陀仏に願いを書けることが信心であるという間違いです。


阿弥陀仏は私に向かって必ず助けると願われ、南無阿弥陀仏と呼びかけられています。それを私はただ聞くばかりです。みずから「思いをかける」という行為も必要有りません。


例えば、太陽が私を照らしているときに、私が「暑いなぁ」という思いを起こさねば太陽が私を照らさないなどということはないのと同じことです。太陽に照らされれば私がそのように思いを起こさなくても「暑い」のです。同様に「ただ今お前を救う」という南無阿弥陀仏を聞けば「ただ今私は救われる」となります。それは私が思ったからではありません。