安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「「南無阿弥陀仏」という言葉の経典上、聖教上の根拠を教えてもらえませんでしょうか。」(あどうちさんのコメント)

あどうち 2016/09/28 07:05
私は教学関係は相当無知でございまして
今更ながら質問をさせて頂きます。
「南無阿弥陀仏」という言葉の経典上、聖教上の根拠を教えてもらえませんでしょうか。
宜しくお願い致します

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160917/1474054013#c1475013904

あどうちさん、コメントを頂き有り難うございました。エントリーが遅くなりすみませんでした。

南無阿弥陀仏という言葉が出てくる経典は、浄土三部経の中では観無量寿経です。
観無量寿経では2箇所ありますが、以下を紹介します。

かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。(浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P115)

この観無量寿経では、五逆罪・十悪をつくってきた悪人が、まさに臨終に善知識にあい、その教えをうけて念仏した結果、極楽に往生したと説かれています。これを元に、善導大師や法然聖人、親鸞聖人はこの南無阿弥陀仏が、私を浄土に往生する働きであると教えられました。

以下、それについていくつか書いていきます。
曇鸞大師は以下のように言われています

かの無礙光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。(浄土論註)

この無碍光如来の名号とは、阿弥陀仏の名号のことですから、南無阿弥陀仏と同じ意味です。その南無阿弥陀仏は、人々の無明を破り、往生の願いを満たして下されると言われています。

次に善導大師は、六字釈に以下のように言われています。

いまこの『観経』のなかの十声の称仏は、すなはち十願十行ありて具足す。 いかんが具足する。 「南無」といふはすなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。 「阿弥陀仏」といふはすなはちこれその行なり。 この義をもつてのゆゑにかならず往生を得。(観無量寿経疏)

これは、最初にあげた観無量寿経の南無阿弥陀仏の称名について、解説されたものです。
南無阿弥陀仏は、願と行が具足しており、だからこそ必ず往生できるのだと言われています。

次に、法然聖人は

南無阿弥陀仏[往生の業には、念仏を先となす。](選択本願念仏集)

私が浄土に往生する働きは、南無阿弥陀仏一つであると言われています。

それらの高僧方の教えを受けられて、親鸞聖人は、以下のように言われています。

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。(教行信証行文類 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P146)

(現代語訳版より)
こういうわけで、ただ名号を称えるところに、衆生のすべての無明を破り、衆生のすべての願いを満たして下さるのである。称名はすなわちもっともすぐれた正しい行業である。正しい行業はすなわち念仏である。念仏はすなわち南無阿弥陀仏の名号である。南無阿弥陀仏の名号はすなわちしんじんである。よく知るがよい。

元は経典から、そこから七高僧方が、その解説をしていかれ、親鸞聖人がまた南無阿弥陀仏一つが救いの働きであり、信心であると教えて下さいました。

浄土真宗は、南無阿弥陀仏の宗教ですから、南無阿弥陀仏一つです。南無阿弥陀仏一つで救われ、南無阿弥陀仏一つで往生します。