安心問答(浄土真宗の信心について)

浄土真宗の信心についての問答

「称名報恩」を「お礼」と解釈するのは間違いである・・・ということを小耳にはさみました。「人格的な仏ではない阿弥陀如来にお礼を言うのは変である」から間違いなのですか?(もかなさんのコメントより)

もかなさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

もかな 2013/09/29 08:07
「称名報恩」を「お礼」と解釈するのは間違いである・・・ということを小耳にはさみました。
「人格的な仏ではない阿弥陀如来にお礼を言うのは変である」から間違いなのですか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130927/1380274689#c1380409653

称名報恩はお礼と解釈するのは間違いか?という点ですが、結論からいえば「お礼の行為である」と言うのは間違いです。
理由は、阿弥陀仏の救いに対して多少なりともそれで返したことになるからです。そうなると、お念仏そのものが「私の行」となりそれは間違いです。


南無阿弥陀仏の称名は、「私の行」ではないことを、親鸞聖人は教行信証に以下のように言われています。

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。(教行信証行巻_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P146)

http://goo.gl/pZ8VHw

称名は「最勝真妙の正業」(最も優れた真実にしてすばらしい徳をもった正定の行業)だと言われています。そんな行はとても私のする行ではありません。阿弥陀仏の行でありますから、「念仏はすなわちこれ南無阿弥陀仏なり」といわれています。


しかし、南無阿弥陀仏に救われた人が念仏するこころは、当然阿弥陀仏に対する感謝とそのご恩を思う心です。そういう意味で「称名報恩」というのは、一つに、称名する人の心から言われたものであり、もう一つは念仏を称えるという「私の行為」を浄土往生の因ではなく、あくまで信心正因ですよということをいうために言われたものです。


また、報恩の心でする行いは、称名念仏のみというわけではありません。親鸞聖人は、教行信証化身土巻にこのように書かれています。

ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。(教行信証化身土巻本)
(現代文)
ここに久しく、本願海に入ることができ、深く仏の恩を知ることができた。この尊い恩徳に報いるために、真実の教えのかなめとなる文を集め、常に不可思議な功徳に満ちた名号を称える。

これは、三願転入のご文のすぐ後に続くお言葉です。本願に救われた上で、そのご恩に報いる気持ちでこの教行信証を書いたのだと言われています。

人に法をつたえようとするのも、報恩の心からするものです。ですから、口に称名、人に法を伝えるといった仏徳讃嘆、体で阿弥陀仏を礼拝する、心で阿弥陀仏のご恩を思うこと全てが救われた上での報恩の心でされるものです。