安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「南無阿弥陀仏のいわれ」とはどのようなことをいうのでしょうか?(うおーんさんのコメント)

うおーんさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

(略)
「南無阿弥陀仏のいわれ」とはどのようなことをいうのでしょうか?(うおーんさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20111023/1319328223#c1319492797

これについては、非会員Aさんからもコメントを頂きました。有り難うございました。

「南無阿弥陀仏のいわれ」または、「南無阿弥陀仏の六字のいわれ」は、御文章に出てくる表現です。
「南無阿弥陀仏」は、本願の名号のことです。
「いわれ」とは、辞書からいいますと、

いわ‐れ〔いは‐〕【×謂れ】
《動詞「い(言)う」の未然形+受身の助動詞「る」の連用形から》
1 物事が起こったわけ。理由。「―のないうわさ」「無視される―はない」
2 由緒。来歴。「―のある土地」「家宝の―」(大辞泉:yahoo辞書

という意味です。

南無阿弥陀仏がどうして現在私を救って下さるのかという「理由」または、その「由緒」というか由来です。別の言葉で言えば「仏願の生起本末」と同じ意味になります。短く言えば「なぜ南無阿弥陀仏で救われるのか」ということになります。

参考に、御文章から「南無阿弥陀仏の六つの字のいはれ」または「南無阿弥陀仏のいはれ」と書かれた御文章は、以下の箇所です。

この信心といふは、この南無阿弥陀仏のいはれをあらはせるすがたなりとこころうべきなり。(御文章2帖目14通・秘事法門

「その名号をきく」といふは、ただおほやうにきくにあらず、善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり。かるがゆゑに、(御文章3帖目6通・願行具足

されば南無阿弥陀仏の六字のいはれをよくこころえわけたるをもつて、信心決定の体とす。(御文章3帖目7通・三業

この信心といふは、この南無阿弥陀仏のいはれをあらはせるすがたなりとこころうべきなり。(御文章5帖目22通・当流勧化

六字のいわれは、仏願の生起本末と同じと書きました。
仏願の生起本末とは、阿弥陀仏がなぜ本願を建てられたのか、そしてどうやって私を助けようと考えられたのか、その結果現在どうやって助けようとされているのかということです。
「南無阿弥陀仏の六つの字のいはれ」も、同様に現在私が「南無阿弥陀仏」と称えさせられる「南無阿弥陀仏」には、私を浄土往生させ仏にするお働きがありますが、なぜ「南無阿弥陀仏」にそのような働きがあるのかということです。

南無阿弥陀仏の六字のいはれについて、いくつか御文章にありますが、今回は3帖目6通から紹介します。

 それ南無阿弥陀仏と申すはいかなるこころぞなれば、まづ「南無」といふ二字は、帰命と発願回向とのふたつのこころなり。また「南無」といふは願なり、「阿弥陀仏」といふは行なり。されば雑行雑善をなげすてて専修専念に弥陀如来をたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふ帰命の一念おこるとき、かたじけなくも遍照の光明を放ちて行者を摂取したまふなり。このこころすなはち「阿弥陀仏」の四つの字のこころなり。また発願回向のこころなり。
これによりて「南無阿弥陀仏」といふ六字は、ひとへにわれらが往生すべき他力信心のいはれをあらはしたまへる御名なりとみえたり。このゆゑに、願成就の文(大経・下)には「聞其名号信心歓喜」と説かれたり。この文のこころは、「その名号をききて信心歓喜す」といへり。(御文章3帖目6通・願行具足

ここでは、南無阿弥陀仏の「南無」と「阿弥陀仏」の心を解説されることによって、南無阿弥陀仏のいわれを教えられています。

上記の御文章にも書かれている通り「南無というは願なり」「阿弥陀仏といふは行なり」とあります。「南無阿弥陀仏」は「南無=願」と「阿弥陀仏=行」が一つになった「願行具足の南無阿弥陀仏」だと言われています。

元々は、私が浄土に往生するには、浄土に生まれたいという「願」とそれに伴った「行」がなければできません。しかし、私のような凡夫にはとてもそのような「願」も「行」も起こすことはできません。そこで、阿弥陀仏が私に変わって願を起こし、行をされました。
阿弥陀仏が法蔵菩薩であられたとき、この私をなんとか救おうと五劫思惟の願を起こされて兆載永劫の行をされました。その願と行が成就して、私を救おうという大悲心(南無阿弥陀仏)となり、それを回向されることを「発願廻向」といいます。
また、阿弥陀仏が法蔵菩薩であったときに私を救うために兆載永劫の行をされました。その行が成就して南無阿弥陀仏となって回向してくださる姿を、「直ちに来たれの本願招喚の勅命」であり、それを「帰命」といわれます。

帰命は本願招喚の勅命なり。 発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。 (教行信証行巻・浄土真宗聖典(註釈版)P170

と、親鸞聖人が教行信証行巻に言われています。

阿弥陀仏となられて、兆載永劫の行を私に回向して「直ちに来たれ」と呼びずくめのお姿を「帰命」と言われています。

「南無」(願)は直ちに来たれの阿弥陀仏の呼びかけ(帰命)であり、私になんとか行を与えて助けようという阿弥陀仏のお働き(発願回向)です。
「阿弥陀仏」(行)は、直ちに来たれの阿弥陀仏の願いを疑い無く聞く者を、ただ今摂取不捨してくださるお働きです。

この南無阿弥陀仏を、疑い無く聞いたのを信心といいますから、他力の信心といってもそのものがらは南無阿弥陀仏以外にはありません。

なんとか浄土に生まれさせたいと、願われた阿弥陀仏の願いも、その行もすべて一つに成っているところの南無阿弥陀仏ですから、その南無阿弥陀仏一つで私はただ今浄土往生する身に救われます。それを「南無阿弥陀仏のいわれ」といいます。

この南無阿弥陀仏について話をしないということは、「なぜ私が救われるのか」「どうして私が救われるのか」について話をしないと言うことです。「750回忌」と銘打って大々的に宣伝をし、3日間の行事で、この南無阿弥陀仏のいわれを言わないと言うことは、真宗の教えを伝えているとは言えません。

ちなみに、10月23日(日)に親鸞会館で行われた二千畳座談会では、「弥陀の救いは往相と還相の二つと750回忌で教えて頂きましたが、一方で南無阿弥陀仏の名号一つを頂くとも聞きました。この関係について教えて頂けないでしょうか?」という質問が出たそうです。

この質問に対して高森会長は、「往相と還相回向は、南無阿弥陀仏のお働きによる」と話をしたそうですが、結局「六字のいわれ」については話をしていません。
直接「南無阿弥陀仏」について尋ねられてもいわれを言わないのですから、法話ならなおさらいわないと思います。

幹部会員歴数十年さんのコメント にも有るとおりで、真宗の教えを正しく伝える気持ちさえないのが、親鸞会の高森顕徹会長です。